[韓国旅行.世界文化遺産.安東.3泊4日] 韓国7大世界文化遺産巡りと儒教の村安東3泊4日ツア-

韓国7大世界文化遺産巡りと儒教の村安東3泊4日ツア-

ツアー内容
韓国旅行を企画している方に、韓国旅行で欠かせない所が世界文化遺産なので、今回は韓国の7大世界文化遺産とギリスの女王のエリザベス2世が訪問した朝鮮時代の歴史と儒教の文化が残っている安東を紹介します。特に朝鮮王朝の王室生活の文化空間である昌徳宮、死後世界の空間である王陵、朝鮮王朝の祭礼空間である宗廟を通じて王様の一生が見学できます。朝鮮王朝歴代の国王と王妃、または先祖を祭る場所「宗廟」、500年以上もつながっている「朝鮮王陵」、朝鮮時代の造園芸術が集約されたすばらしい庭の秘苑(ビウォン)がみられる「昌徳宮」、朝鮮時代に平城と山城の長所をあわせて築きあげた「水原華城」、安東では朝鮮時代の儒教の村「安東河回村」、代表的な書院の建築美が見られる「屏山書院」、現存している韓国一の古い木造建物「鳳停寺」を紹介しながら韓流スターリュ・シウォン、ペ・ヨンジュンのゆかり場所、世界10大遺跡都市の一つである千年古都慶州では新羅寺院建築の最高峰「仏国寺」、釈迦如来座像の傑作とされる「石窟庵」をご案内させていただきます。
宗廟
宗廟は,朝鮮時代の歴代王と王妃,及び追尊された王と王妃の位牌が祭られている霊廟で、敷地内には,宗廟の正殿をはじめ,王室の位牌のうち正殿に入れなかった位牌を祭る別廟である永寧殿,展祀庁,御粛室,香大庁,功臣堂,七祀堂などがあります。 1392年朝鮮王朝を建国した太祖李城桂が1394年、開成からソウルに都を移し景福宮を建てて、翌年の1395年、宮廷の左側にあたる東に宗廟を、右側である西に社稷檀(自然の神を祭るところ)を置かなければならないという儒教の礼法に従って建てました。儒教では人が死ぬと魂と魄に分かれ、見えない精神である魂は天に帰り、肉体である魄は地に帰ると考えられています。それで、魂を祀る祠堂と魄を祀る墓をそれぞれ造って先祖を崇拝しています。亡くなったご先祖の魂のこもった神主を作って祭礼を行い、子孫たちの精神的支えとしたのが「宗廟」なのです。宗廟は祭礼のための建物であるため、すべての建物が節制されたシンプルな技法から成り立っており、構成、  構造、装飾、色彩のいづれもシンプルな美しさを持てます正殿と永寧殿のある廟庭には樹木や草花を一切植えてない反面、囲いの周辺には厳選された特別な樹木を植えました。四方を欝蒼とした幽玄な森に作り上げ廟庭だけが空に続く空間としました。天からの精気を授かり、そこに霊的な力が満ち宿るようにしました。

宗廟の構造

蒼葉門
宮殿の正門とは異なり、赤と緑の2色だけを使用し、階数も1階だけでシンプルな構造形態がとても簡潔で品があります。


三道(神香路、御路、世子路)
三道は中央と左右の3つの部分にそれぞれ薄い石が敷かれて道になっています。
・神香路は中央の道で、霊魂が通る「神路」、香(お香)、祝文(神に告げる内容が書かれた祝文)、幣帛(紙で出来た位牌)など祭祀の礼物が往来する「香路」が合わさって「神香路」と言います。
・御路は右(東)側で王が通る道です。
・世子路は左(西)側で皇太子が通る道です。
三道などこれらの路には、わざわざ荒い石が使われ、王様をはじめとした祭祀に参加する祭官たちが軽薄に早く歩いてはいけなくて、ゆっくり歩くようにする為です。



中池塘
天圓地方(天は丸く地は四角である)思想と陰陽思想で四角形の池の真ん中に、丸い島があります。四角形の池は地を象徴すると同時に陰を意味し、丸い島は天を象徴すると同時に陽を象徴しています。宮殿の池には松の木が植えられ、あずまやがありますが、中池塘は祭礼空間なので、あずまやがなく、イブキを植え、花の咲く木を植えないでした。



望廟楼
望廟楼は、祭祀を行う時に王が休息をとっていた所です。
望廟楼という名称は祭祀を行う時に、王が宗廟の正殿を見つめ先王の業績と宗廟社稷(朝時代の王室と国)を考えるという意味でつけられました。宗廟の建築物の中で唯一八作屋根(軒の四隅が反り上がっている八字模様の屋根)になっています。



恭愍王神堂
正式名称は高麗恭愍王影幀奉安之堂で、高麗王朝第31代恭愍王のために宗廟創建時に建立されました。神堂内部には恭愍王と王妃の魯国大長公主を一緒に描いた影像と駿馬図が奉安され、春と秋に祭祀が行われます。宗廟を建立する時に北側から風が吹き、恭愍王の影像(肖像が書かれた掛け軸)が廟庭に落ちました。王と臣下が論議の末、影像を奉安することになり、朝鮮王朝の位牌を祀った場所に高麗の恭愍王を一緒に祀ったのです。



香大庁
宗廟で使用する香祝幣と祭祀を行う時の礼物(供え物)を保管し、祭祀に出る祭官が待機していた場所です。香祝幣:香(お香)、祝文(神に告げる内容が書かれた祝文)、幣帛(紙で出来た位牌)



御粛室(斎宮)
御粛室は、王が祭礼を行う前に斎戒沐浴をし、衣服を清め、世子と共に祭祀を行う準備をしていた場所で斎宮ともいいます。王様と皇太子が祭祀前日に身と心を清めた場所です。庭を中心に北側に王がとどまる御粛室、東側に王世子がとどまる世子斎室、西側に御沐浴庁があり、塀で囲まれています。王様と皇太子はここで沐浴をし、衣冠を着装して身と心をきれいにした後、祭礼を行ないました。王を初めとする祭官は、祭祀を行う7日前から飲酒歌舞が禁じられ、弔問も行かず、死刑の執行や宣告もせず、また、夫婦が床を共にしなかったという。そして、祭祀の3日前からは毎日沐浴をし、祭祀の前日に御粛室に来ることになっていた。



版位台
王と王世子が祭礼をする時、しばらく足を止めて礼をする場です。祭祀を行う準備をしたり、祭礼の準備が終わるまで立って待っている、一種の待機場所です。祭礼の時、王様と世子は、御粛室で斎戒沐浴をした後、御粛室から御路を通って正殿の東門前にある殿下版位と世子版位に行き、足を止めて祭祀を行う準備を整えました。王様が直接祭祀を行う時には、王が初献官(祭祀を行う時、最初に酒杯を奉げる臨時の官職)、王世子が亜献官(2番目に酒杯を奉げる臨時の官職)、領議政(現在の国務総理職)が終献官(最後の3番目に酒杯を奉げる臨時の官職)の役割を担当しました。



饌幕壇
祭礼の時に使われる食べ物を前もって検査していた壇。

犠牲台
牲省台とも呼ばれ、祭礼の時に供える牛、羊、豚を検査していた場所です。




守僕房
祭祀の準備をしていた官奴と下級官吏(祭礼関係の職員)が住んでいた場所です。




典祀庁
典祀庁は、宗廟祭礼の時に使用していた器・品物運搬器具などを保管し、食べ物を準備した所です。庭を中心に建物を□の型に配置し、庭には礼物(供え物)を準備していた石臼の跡が残っています。




祭井
宗廟祭礼に使用される水を汲んだ井戸です。





正殿
正殿は宗廟の中心の建物で、もともと宗廟と呼ばれていたが、永寧殿が建てられてからは太廟(テミョ)と呼ばれたりもした。李朝時代の初期には朝鮮第1代王の太祖の4代祖の位牌(高祖の父母、曾祖父母、祖父母、父母)を祀り、それ以降は当時の在位王の4代祖と歴代王の中でも、特に功績のある王と王妃の位牌を祀り、左(西側)から順に祭祀を行ました。正殿は1395年9月完成、永寧殿は世宗3年(1421)建立し、宣祖25年(1592)文禄の役で消失、光海元年(1608)に再建されました。正殿は各王と王妃合わせて計49位の位牌が19室に祀られ、韓国の単一建物としては最長の建物(101m)で、前面に長く整えた石を積み上げて作った広い月台(東西109m、南北69m)があります。建物が長い理由は、朝鮮王朝が続き奉安する歴代王の位牌が増えたことで、幾度にわたって建物を横に増築したわけです。正殿の建物が長い理由は内部に祀る神主の数が増加するに従って何回かに渡って横に増築されたため、横に伸びる建築様式になっています。横に増築されていく度に、斎宮)なども東側に移して再び建てられました。

正殿の門について
正殿東門祭礼の時の祭官と王、王子が出入りする門)
正殿南門(霊魂が出入りする所で人は通れません。)
正殿西門(楽工、踊りを踊る舞員が出入りする門)

建築的の特徴
宗廟正殿と永寧殿は祭祀用建築物として必要不可欠な装飾だけが施されています。丹青の色彩や文様も可能な限り装飾を抑え、庭も同様に簡潔に作られています。塀、月台、基壇、屋根も祭祀用として構成され、柱は王位の永続を、月台は安定を、屋根はどこまでも広がる無限を象徴しているそうです。 正殿に祭られている王と王妃について西側の第1室から朝鮮第1代王(太祖と王妃),朝鮮第3代王(太宗と王妃),朝鮮第4代王(世宗と王妃),朝鮮第7代王(世祖と王妃),朝鮮第14代王(宣祖と王妃),朝鮮第16代王(仁祖と王妃),朝鮮第17代王(孝宗と王妃),朝鮮第18代王(顕宗と王妃),朝鮮第19代王(粛宗と王妃),朝鮮第21代王(英祖と王妃),朝鮮第22代王(正祖と王妃),朝鮮第23代王(純祖と王妃,文祖と王妃),朝鮮第24代王(憲宗と王妃),朝鮮第25代王(哲宗と王妃),朝鮮第26代王(高宗皇帝と皇后),朝鮮第27代王(純宗皇帝と皇后)の位牌,合わせて19室49位が祭られている。




功臣堂
朝鮮王朝の歴代功臣の位牌を祀った場所で、王の神室と同じ域内にあるので、格式は多少低くなっています。功臣堂には李朝太祖の功臣を初め、27代目純宗皇帝まで正殿に祀った歴代王の功臣の位牌83位を祀っています。



七祀堂
王室に安泰をもたらしてくれる、季節の七神(七祀)の祭祀が季節ごとに国家祭礼として行なわれた場所。

※季節ごとに祀られた宮廷の七神について
・司命(人間の寿命・運命をつかさどる神)- 春
・戸(家を司る神)- 春
・竈(食べ物をつかさどる神)- 夏
・門(宮門の出入りをつかさどる神)- 秋
・公厲(刑罰をつかさどる神)- 秋
・行(道と人間の行動を司る神)- 冬
・中霤(堂や室など空間をつかさどる神)- 冬





永寧殿
永寧殿は正殿に祀られていなかった王と王妃の位牌を移動し、祭祀を行った別廟で、朝鮮時代4代王の世宗1421年に朝鮮時代2代王の定宗の位牌を宗廟に奉納する時に、正殿の空間が不足していたため、別途、建立されました。永寧殿の永寧は祖宗(国王の先祖)と子孫の道が共に平安であるようにという意味で、永寧殿の建物と廟庭の規模は正殿よりも小さく、2つの建物の階級の違いを表わしています。また、永寧殿は、真ん中の太祖の4代祖を祀った4間を左右の夾室(横に付属した小部屋)6間よりも高くし、階級を区別しています。左右の夾室6間には、定宗(2代)、文宗(5代)、端宗(6代)など正殿に祀られなかった王と王妃、そして、後に称号を贈られた王と王妃を合わせて34位の位牌が16室に祀られている。王様だった人でも、後降下させられたひと(燕山君、光海君)は永寧殿には祀られていないです。「君」という称号は王族に与えられる称号であって、王に与えられる称号ではないです。 永寧殿の向かって一番右側(東側)は朝鮮最後の皇太子、英王とその妻李方子氏が祀られています。方子さんは日本の皇族梨本宮家から李王家に嫁いできました。 政略結婚でしたが、方子さんは最後まで忠実に夫に従われたそうです。




祭器庫
正殿の祭器は正殿東側の夾室2間に保管され、永寧殿の祭器は永寧殿東側の別の祭器庫に保管されています。














楽工庁
楽工庁は、宗廟祭礼の時に、音楽を演奏する雅楽師が待機し練習も行った建物です。




宗廟祭礼楽
宗廟で、祭祀(宗廟大祭)を行なう際に舞踊や歌と共に楽器を演奏する音楽を総称して言います。宗廟祭礼儀式では保太平(王たちの文化的業績を称える)と定大業(軍事的貢献と業績を称える)という音楽を中心に演奏すると同時に、先代の王の業績を称える楽章という歌を歌い、64人が立てて踊る八佾舞が付け加えられます。 登歌は王たちの文化的業績を称える保太平を演奏し、軒架は王たちの軍事的貢献と業績を称える定大業を演奏します。これらの歌は、先祖の魂が天から降りてきて奉献物を楽しみ、後世にも福を与えるようとするものです。文舞は左手に硅(竹笛)、右手に翟(竹笛)を持って踊り、武舞の前三列は剣を持ち、後三列は槍を持って踊ります。この中で大司祭たちは、それぞれ三度ずつ黄銅で作られた杯に酒をつぎ、先祖と神に尊敬を表して平和と繁栄を祈願します。

面白い質問)
1.朝鮮時代は何年間続いた?
2.朝鮮時代歴代王様は何人?
3.宗廟には魂霊道がある?


朝鮮王陵(宣靖陵)
宣靖陵は、宣陵と靖陵の略称で、宣陵は朝鮮時代の9代目の王である成宗大王(1469∼1494)の墓で、靖陵は、11代目の王である中宗大王(506~1544)の墓です。ここにはその規模がほぼ等しい宣陵と靖陵、またこれらより少し小さめの王妃陵の3つの陵があります。朝鮮第9代成宗は世祖の孫で、德宗(推尊)の2番目の息子で世祖3年(1457)に生まれ、13歳(1469)のとき即位しました。在位25年間、学問を推奨し、制度を整備するなど、色々な功績を残し、38歳(1494)で崩御されました。その王妃の貞顯王后は坡平尹氏の鈴原府院君の娘で、成宗11年(1480)に妃に封じ、中宗25年(1530)に69歳で崩御されました。 朝鮮第11代中宗は成宗の2番目の息子で、成宗19年(1488)にうまれ、1506年に即位し、在位 39年(1544)、59歳で崩御されました。6千坪の広い陵域に500年を誇る杉をはじめ、楢柏、いぶき等の木が鬱蒼とした森をつくっており、複雑な市内に位置していながらもゆったりとした雰囲気を感じられる場所。陵の周辺に立てられた石の彫刻品も一見の価値があるますよ。

面白い質問)
1.朝鮮時代の王様の平均寿命は?
2.どっちの封墳が王でどっちが王妃だろう?
3.王も職業病があった?
4.王のお名前は誰も呼ぶことができなかった?


昌徳宮
1405年に、朝鮮3代目国王・太宗が景福宮の離宮として建てた宮殿で、韓国唯一の宮の後園の秘苑あり、朝鮮王朝500年の5大宮の中で最も原形をとどめています。 離宮は王が息抜きできるところなので、建物の配置もそれを考えて建てました。景福宮は正殿、政治の場、生活の場が南北一列ですが、昌徳宮は東西に広がるように建てられ、 地形や自然環境を活かした後苑からのびてくる尾根筋に沿って作られました。壬辰倭乱(秀吉の朝鮮征伐)の時に景福宮と共に消失し、破壊、火災等のたびに修復を重ね現在にいたっています。壬辰の乱を免れた木造建築物の敦化門、正殿の仁政殿、大造殿(王妃の寝室)など、昌徳宮の敷地内に13棟、秘苑内に28棟の全41棟の建物が現存し、王宮の荘重さがよく保存されています。宮殿内の「楽善斎」は1847年後宮の処所として建てられ、1989年まで徳恵翁主と李方子女史が生活していたところで日本人観光客の興味を引いています。大造殿の奥には、地形や自然環境を活かした朝鮮時代の造園芸術の粋といわれる韓国の代表的な 建築物である秘苑があります。
 

昌徳宮の構造

敦化門
裏山とよく調和し、ソウルの王宮の中で最も美しいとされている門である。王様が輿に乗って入るときに威厳を持たせるように道路から坂を上ってから、階段を昇るようになっていました。日本時代最後の王である徳宗をはじめ王族が生活をしていたので車で直接は入れるようになっていました。徳宗の葬儀は日本国国葬で行われたが、そのときこの門のそばで6.10万歳事件がおき、標示石が門のすぐ前に置かれています。




錦川橋
411年に架けられた王宮の入り口の石橋で、ソウルに残る最古の橋です。欄干には橋を守る動物が置かれ、川の中も南側にヘテ、北側に玄亀がいて川を通って入ってくる邪気を防いでいます。




仁政殿
仁政殿は昌徳宮の正殿で、内部には玉座と日月五峰山図が置かれ、建物には魔物を防ぐような置物が付いてないです。朝鮮王朝のマークであるスモモ模様の浮き彫りが屋根にはめ込まれています。王の即位式、臣下の朝礼式、外国大使の接見等、国の重要行事が執り行われた建物で、広場には品階石(正二位など官位の書かれた小さな石柱)が立って官位によって立つ位置が決まっており、高い地位の者ほど王様の座る仁政殿に近いところに立ちます。1910年、日韓併合条約がここで結ばれました。




日月五峰山図について
日月図ともよばれ、王の権威を象徴する図です。王を象徴する太陽、王妃を象徴する月、5つの山が描かれ、中国の道教の伝説の山、崑崙山を意味します。松、滝、海、波などを描いて空、動植物など一切のものが王と国の安泰を祈る様子をあらわし、王のいる所には必ずおかれ、王が行幸するときには絵も一緒に移動しました。




宣政殿
王が日常臣下にあって、政務を論議した御殿で、青い瓦屋根の建物になっています。青い瓦は価格が高いため、身分の高い人が使うもので、韓国の大統領官邸が青瓦台というのもこちらの影響です。





熙政堂
国王の御座所として、また御前会議室としても使われた事実上執務室です。




大造殿
王と王妃のプライベートな空間で、王と王妃の御寝殿として使われました。王とその家族が生活した中宮殿でもあります。





楽善斎
元々は隣の昌慶宮の中にあり、王の未亡人などが暮らすところとして憲宗13年(1847年)に丹青を塗らず素朴に建てました。1989年4月まで対馬の宗氏と結婚させられた徳恵翁主、梨本宮家から嫁いだ李方子女史が生活していた所です。現在見られる建物は李方子女史が亡くなった後、日本風の作りから原型に戻したものです。





梨本宮方子女史について
梨本宮家出身の梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)で朝鮮王朝最後の皇太子李垠の妻です。皇太子李垠は1907年(明治40)に11歳で伊藤博文に手を引かれて日本に人質として連れて行かれました。 1910年日本軍部は大韓帝国を日本の植民地とし、支配を強めるために李王朝皇太子李垠と梨本宮方子との政略結婚を企み、1916年(大正5年)婚約、方子の日韓の波乱の人生が始まります。日韓の架け橋としての役目を果たし続けた方子女史は1989年(平成元年)87歳で逝去し、韓国の土となって夫の側で安らかに眠っています。多くの韓国国民が王宮から王家の墓まで見送りました。日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに、「韓国障害児の母」と讃えられる数奇な運命を辿った方子女史は、「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べています。

後苑(秘苑)
昌徳宮の後苑、秘苑は韓国の伝統的な造苑で自然の地形に合わせて森林を活かして桜閣を建て、花と木を植え、湧水を活かして池を掘って、美しい調和の美をかもしだしています。1405年の昌徳宮創建当時造営され、昌徳宮北方にある庭園で、ソウル都心にあると思えない緑あふれる空間になっています。亜字型で建てられている「芙蓉亭」、国の将来を担う人材を育て、学問を研究し、本を出版していた所、科挙で合格したものの図書館でも使われた「宙合楼」、王妃が養蚕をした建物「書香閣」、池の鯉が科挙に合格し、竜となって宙合楼へ登っていくことを象徴し、登竜門を表している「魚水門」池の縁には鯉が、魚水門から宙合楼までの階段には雲が彫られています。





英花堂
科挙の1つの「殿試」が行われ、王が臣下と共に花見をしたり、詩を作ったりして、風流を楽しんだ所です。




金馬門、不老門(歳をとらないことを願って建てた門)
王族のプライベート空間で、金馬とは王の跡継ぎ(世子)のことで、世子が読書をするために寄傲軒と倚斗閣を建てました。




観覧亭
韓国で唯一扇形をした東屋です。




演慶堂
王様が一般の士大夫(朝鮮時代の上級階級)の生活を知るためにわざわざ宮殿の中に建てた臣下形式の建物です。




煕政堂
王と王妃のプライベートな空間で、応接室として使われて建物の中に応接セット、風呂、台所などが残されています。内部の西洋式のランプは朝鮮王朝最後の皇帝、純宗が1926年に亡くなるまで煕政堂で晩年を過ごしながら使ったものです。

面白い質問)
1. 梨本宮方子女史はこちらの宮殿に住んでいた?
2. 梨本宮方子女史は主人が亡くなって日本に戻った?



水原華城
朝鮮王朝第22代正祖大王が政治の争いに負け、木で作った米びつに閉じ込められ死んだ父の思悼世子に対する親孝行と、強力な王都正治を夢見て建設した親孝行の城郭であり、新都市でもあります。  この城は朝鮮時代最後に築かれたもの(1794年着工、1796年完工)で、文禄・慶長の役・丙子胡乱などの戦乱を通して明らかになった韓国の城の弱点を、学者達が科学的・実用的・効果的に補完し築きました。城の形態は八達山と市内に広がる平城と山城の長所をあわせ持ち、城の間を水原川が流れています。 1997年12月には城全体がユネスコ指定世界文化遺産として登録されています。 参考までに、城郭築城に費やされた資材について言いますと、石材が20万1,400塊・瓦53万枚・レンガ69万5,000枚・木材26,200株などがあり、動員された人員が延べ37万6,343人に達するほどの大工事でした。 また築城時は茶山丁若鏞によって考案された、多くの新素材が使われました。 たとえばそのひとつ挙重器の場合、40斤の力で25,000斤の重さのものを動かしたと言います。 城の形態は八達山と市内に広ガク平城と山城の長所をあわせ持ち、城の間を水原川が流れています。 城郭全体の長さは約5.7kmで、主要な施設物として4大門を始めとし、将台が2ヶ所・水門が 2ヶ所・砲楼が5・舗楼が5・閣楼が5・暗門が4・空心が3・雉城など、全部で48ヶ所ありましたが、部分的に破壊されたものは75年から5年に渡って復元補修しました。華城は都を守る城郭としての機能を備えるとともに、城郭の建造物には芸術的な美しさがあります。日本の城は戦いに重きをおいた山城、平地に堀をめぐらせ天守閣をそびえさせた城が多く、華城は人々が住む街全体を守るために城壁で取り囲む形式で、城壁の宮殿に王が住み、一般の人々も生活し、日用品や食料を売る市場や食堂などの商店街もあります。 1997年12月には城全体がユネスコ指定世界文化遺産として登録され、名実共に世界の文化遺産として管理されています。華城と関連して更につけ加えるなら、築城についてのすべての記録「華城城役儀軌」が、本と して残っていて、その他、現在奎章閣に保管されているこの本の中には、設計・動員された 人の名前・資材の数量・人件費などが詳しく記録されています。
※時間的に余裕ある方は約4時間程度散歩兼ねて一周することも良く、時間がない方は下記のお勧めの所を中心に観光する事も良いと思います。「八達門、長安門、華西門、華虹門、西暗門、西北空心敦、東北空心敦、東北角楼、西北角樓、西将台、西弩台、西舗樓、烽敦」

水原華城の構造


八達門
華城の4大門の中で南側の門で宝物第402号、門の前に半円型に門を囲むように城郭(甕城)がつくられています。


長安門
長安門は華城の北側にある門として、水原の北はソウルで、華城の正門はソウルに向かっている北の長安門だと言えます。石を積んだ虹門の上に2階の門樓を建て、レンガで積んだ半月型甕城が門を囲んで、屋根の形式は隅進角屋根に出来て雄大さと威厳を表しています。


華西門
華西門は華城の西門で、左・右に城壁につながる虹門の上に単層で門楼を建て、四方は女墻(めかき)で囲まれており、前面には半月姿の、石築で作られている壅城が片方だけ開ける形態に設けられています。屋根は八作屋根で、こじんまりした優雅な味をかもしています。


蒼竜門
蒼竜門は華城の東にある門で、この門の規模と構造は、華西門とほぼ同じ。


華虹門
華城には水原川が南北に横切って流れ、城と連結される部分には7つの水門を設置して、人が通れるようになっています。7つのアーチから水が出る景色が城の中で一番綺麗です。


暗門(西南暗門、西暗門)
暗門というのは、城の正門でなく脇門で、糧食や家畜や武器などを入れたり、背後からの攻撃及び軍需品の調達が出来るように隠密に往来するため作られた秘密通路です。馬1匹が通るのが精一杯の大きさです。城郭の折れ曲がった部分や樹木に隠れてよく見えない所などに設けられ、横にねじれているのが特徴です。


空心敦(西北空心敦、東北空心敦)
空心敦は戦時に使われる長距離観測所として、外部向きの上下に穴を空け、外の動静を探ることが出来るうえ、敵を攻撃する時に銃砲が使えるように作られています。東北空心敦はさざえ閣ともいわれ、1階は兵士が寝泊まりできるようにオンドル部屋となっていて、3階は楼閣を造って敵の動きを見張れるようになっています。


角楼(東北角楼、西南角樓、西北角樓)
角楼は城郭の周辺を監視、軍糧の運搬通路、休憩など、様々な用途で使用されました。遠距離展望が良い、城郭の角の要所に位置しています。東北角楼は石、レンガ、木材を組み合わせた独特な形をし、訪花随柳亭ともいわれ、華城を代表する建築です。西北角楼は楼閣の一階にはオンドル部屋を造って兵士が寝起しながら守るようにしました。

 

将台(西将台、東将台)
西将台

西将台は八達山の頂上に位置する軍士指揮本部で、一名華城将台と呼ばれています。2階に上がれば四方十里(約40km)が見え、城内にいる兵士達を一目で見ながら指揮できる所で、ここに旗を立てて城内の兵士に弓を射るよう指示しました。昔から五方色という方位の旗があり、東は青、西は白、南は赤、北は黒、真ん中は黄等で、方位にあわせる旗をかけました。正祖大王が陵(大王の父親の思悼世子)行くため華城を訪ねる時、西将台に来て直接軍事を指揮したそうです。
東将台
東将台は軍士たちの訓錬場として使うために作っておいた指揮本部で、錬武台と呼ばれています。


弩台(西弩台、東北弩台)
弩台というのは楼閣無しで鉄の弩を打つことが出来るように作った所で、常に敵からの攻撃を監視したり、台と城全体に五方色の旗で信号を出して敵が近づいたとき、矢を射るように造った陣地です。敵から軍事指揮所を効果的に保護できるように兼ねています。

砲樓(北西砲樓、南砲樓、西舗樓、北東砲楼、北砲樓、東北砲楼)
砲楼は城の外に突出させた雉城の上に設置した建物で、城内で移動する味方の動きが敵に知られないよう設置した軍事待機所のような見張り台です。楼閣には板門が設けられ箭眼という穴をあけて敵を監視したり、攻撃もできるようになっています。


敵台(北西敵台)
敵台は甕城に接近する敵を防ぐために城門の左右に設置した、防御施設であす。


雉(東一雉)
雉は城郭の所々に城壁を突出させ、前方と左右方向から城壁に接近する敵から防御しながら敵の動きを探るための施設。

烽敦
烽敦は見張り人を設置して偵察と情報伝達の任務を遂行する所で、急な連絡は烽火の煙を使って行われました。烽火台の煙が1本の場合は平時、2本の場合は敵出現、3本の場合は敵境界接近、4本の場合は 敵境界侵入、5本の場合は敵戦闘中を知らせます。

面白い質問)
・お城の暗門はいつ使う門?
・水原華城の長さは?
・水原華城を築くのに37万6,343人が動員された?

安東屏山書院
自然と調和した代表的な書院の建築美(道学、文章、徳行、書に名をとどろかせ、嶺南の儒生たちの崇敬をうけた大儒学者として知られる柳雲竜の学問と徳行を追慕するために1613年にこの地方の儒林が建てた書院です。

質問)
1.朝鮮時代の貴族のトイレ&一般庶民のトイレはどう違うか?
2.先輩は泊まる時に東西のどちらの部屋に泊まるか?
3.書院建築と住宅建築の違いは?

※昼食は?安東レストラン昼食
(ペ・ヨンジュン、リュ・シウォンが食事した食堂(玉溜亭)で安東名物のチムタク(鶏の煮込み)料理が苦手な方には安東名物の鯖焼き定食をご用意しております。

儒教の町安東河回村
三面が洛東江に囲まれており、村の名前を水が回って流れるということから河回と呼ばれるようになった とのこと。 大儒学者として知られる柳雲竜(リュ・ウンヨン)や、文禄・慶長の役のとき領議政(現在の総理大臣)だった柳成竜(リュ・ソンヨン)を筆頭に、多くの偉人を輩出してきたため、朝鮮半島南部を代表する両班の村として位置づけられました。山と川に囲まれた地理的な条件から敵の侵入を一度も受けたことがなく、上流層の瓦家から民家の藁葺き家まで昔の姿をそのまま保存しています。

1.朝鮮時代の儒教について
2.朝鮮時代の身分について



エリザベス女王訪問記念館
イギリスのエリザベス2世女王が73歳(1999年4月21日)のお誕生日祝いで安東を訪問した記念で建てた記念館。

鳳停寺
鳳停寺は新羅時代の30代王((661-681))である文武王12 年(672年)に義湘大師(625-702)が 浮石寺から飛ばした紙の鳳がここに舞い降りて寺を建てたと伝えられています。安東で最も大きい寺刹である鳳停寺は現存している韓国一の古い木造建物の極樂殿があります。 安東鳳停寺極樂殿は切妻屋根、柱心包を有し、高麗時代の建物ですが、統一新羅時代の建築様式を内包しています。柱のエンタシス、栱包の単調な構造、内部架構の古格さがこの建物の特徴です。大雄殿の中心には釈迦如来、左には観世音菩薩、右には地蔵菩薩を配置し、寺には重要な建築物と高麗時代の代表的な石塔の三層石塔があり、万歳楼、寮舎などの建物、附属庵の霊山庵、知照庵があります。 また高麗の建物である極樂殿と朝鮮初期の建物である大雄殿、朝鮮中後期の古今堂と華厳講堂、無量海会、万歳樓などが並んでおり時代別に比較するのも面白いです。極樂殿 •大雄殿には大藏經を印刷するために刻んだ木版が保管されています。高麗時代には太祖王健と恭愍王が、最近ではイギリスの女王、エリザベス2世が千年続いた修行空間と韓国の美しい木造建築物を見に鳳停寺に立ち寄ったことで、世界から注目されました。

韓流スター リュ・シウォン
芸能人リュ・シウォンは柳成龍(当時の総理大臣)の13代孫にあたります。 リュ・シウォンの安東河回村の中にある実家の外見を見学できます。

韓流スター ペ・ヨンジュン
ペ・ヨンジュンが旅行本の撮影の為、一泊した北村宅(ブッチョンテク)は?
和敬堂(ファギョンダン)
ペ・ヨンジュンが旅行本の撮影の為、尋ねた600年前から安東の家々に伝わる伝統味噌作りは?
安東味噌村は?
(ヨン様の味噌亀写真撮影&600年前から安東の家々に伝わる伝統味噌作りの説明を聞く)

※安東豆知識
・別神グッ仮面劇とは? 
「河回 別神グッ仮面舞」は12世紀中頃から河回村(ハウェマウル)を中心に伝承されてきた仮面踊りで、村の守り神(別神)を喜ばせ、村の安全と豊作を祈っていました。仮面をかぶって踊る姿は滑稽で、内容は貴族である両班や儒学者の風刺、庶民の辛い生活、仏教批判などで、合わせて10の仮面 が登場します。
・安東の代表的なお土産は?安東焼酎、河回仮面

陜川海印寺
海印寺は韓国三宝寺院(仏宝寺刹の通度寺、法宝寺刹の海印寺、僧宝寺刹の松廣寺)の一つで、仏教の経典を8万枚の板に刻んだ八万大蔵経が保管されていることで有名です。 八万大蔵経は、蒙古の侵略に対して国難克服を祈願する意味で、高麗23年(1236年)から16年 という長い歳月をかけて作り上げられたものです。版木には、南海と巨済地方でとれたホオノキを3年間海水に漬けた後、陰干ししたものが使われています。横68㎝、縦24.5㎝、厚さ3㎝の大きさの板の両端に木をはめて版木の均衡を取り、漆を塗って腐食を防いでいます。

経版の数は81,340枚で、冊数は6,791冊。 これらは温度と湿度が一定に保てるという朝鮮初期の建築物・八万大蔵経板殿に保存されており、ユネスコ世界文化遺産に指定されています。 この八万大蔵径は仏教の経、律、論の三蔵を集大成したもので世界仏教研究の貴重な文献と見なされ、日本が大正新修大蔵経を作る時に見本(東京の芝増上寺など)とされたものです。また中国にも逆輸入され英国、米国、フランス、ドイツなどの西欧先進国にも伝えられて、世界仏教研究に大きな影響をおよぼしています。 海印寺は新羅・哀荘王3年(802年)に順應と理貞の二人の僧によって創建された寺院です。 「海印」とは華厳経の海印三昧に始まるもので、お釈迦様の正しい悟りの世界を指す言葉、汚れていない清浄無垢なわれわれの本心を表す言葉です。高麗時代、名僧の大覚国師義天もこの寺に滞在しました。韓国仏教の象徴的な聖地として禅院、律院、講院を運営している叢林で、大寂光殿に毘盧遮那三尊仏と観世音菩薩像を奉安しています。

この建物は高麗大蔵経を奉安した建物として有名なだけでなく、蔵経の保管に求められる機能を除いては何の装飾もない同じ様式の2つの建物が南北に並んでいて、建物自体も非常に特殊である。南側の建物は修多羅蔵、北側の建物は法宝殿といいます。 朝鮮時代(1392-1910)、江華島から八万大蔵経を移した後、法宝寺院とも呼ばれています。


慶州仏国寺
佛国寺は吐含山南西麓に建立された寺刹で、751年金大城により着工し、金大城の死後も国家により事業が 引き継がれ、774年に堂宇を完成しました。仏国寺と石窟庵は、この二ヶ所を見ずには新羅芸術、または韓国文化を論じる事は出来ないと言われるほど昔から広く知られた優秀な文化財です。仏国寺は新羅人がこの世に造り出した仏の国で、3つの世界を仏国寺に造ろうとしました。3つの世界は1.悟りの世界、2.極楽の世界(苦しみがなく、誰もが安らぎを感じる極楽世界)、3.蓮華蔵世界(発願と修行によって清められた広大無辺の世界を意味する)です。

1.悟りの世界
仏国寺にある青雲橋と白雲橋を渡って紫霞門を通り抜けると大雄殿(大雄はお釈迦佛大徳を表現する徳号)が現われ、ここが釈迦がいる悟りの世界です。青雲橋と白雲橋には俗世の欲と煩悩を断ち切ろうと努力する人々が歩く三十三段の階段(三十三天を意味)があり、仏の国と衆生の世界を階段で分けています。紫霞門(仏様の体に発する赤い金色の光明が霞のようにたなびくという意味)は俗世の煩悩を紫金色の光明で洗い流し、仏の大真理の世界へ入っていくための関門の役割を果たしています。

2.極楽の世界
極楽世界は蓮華橋と七宝橋を渡って、安養門を通ると極楽殿(阿弥陀仏)があり、西方の極楽世界を意味します。安養は極楽のもう一つの名前で、安養門は極楽世界に入っていく門という意味を持っています。
極楽殿
極楽殿内には国宝第27号に指定された金銅阿弥陀如来坐像が奉安されています。阿弥陀仏は太陽が沈む西方の大変幸せな国におられると言われ、その国を極楽浄土と言い、その阿弥陀仏を祭る処を極楽殿と言います。穏やかな印象の阿弥陀如来坐像は新羅時代の金銅仏像の中で最も大きく立派な作品です。751年創建された極楽殿は、その後数回の重建重修を経て1750年、創建当時の基壇と礎石の上に重建されました。
3.蓮華蔵世界
蓮花蔵世界の毘盧殿には毘盧遮那仏がいます。
毘慮殿
高麗時代様式の毘留殿内には統一新羅時に造成された国宝26号の金銅毘留舎那仏が安置されていあす。751年に創建され、 その後数回の重建重修を経て1973年、創建当時の基壇と礎石の上に重建されています。

仏国寺伽藍全体を支えている大石壇は新羅の様式美と堅固さを見せる文化遺産で、正方形の柱と横の長大石、その間を埋める自然石は美的な面を最大限に考慮しながらも実に堅固に配置されて、千年の歳月もの間、崩れる事もなく大伽藍を支えています。

多宝塔と釈迦塔が対照的な美の競い多宝塔は永遠なる法身仏の多宝如来を象徴し、土をこねたように石を刻み出した華麗さをみせ、釈迦塔は報身仏の釈迦牟尼仏が現世にあれとの願いを象徴し、爽快な尊さを感じさせる釈迦塔の端正さを感じます。

無説殿
経論を講説する講堂で、「言葉の無い所」という逆説的な名です。
觀音殿
觀世音菩薩を安置している法堂で、 751年創建。数回の重建重修を経て1973年復元されています。
 


石窟庵
統一新羅時代の第35代景徳王10年(751)に仏国寺創建当時の宰相だった金大成によって起工し、彼の死後には国が引き続き完成させました。金大成は現世の父母のために仏国寺を建て、前世の父母のために石仏寺(石窟庵)を建てました。王族による国家的な造営で、当時は石窟寺と呼ばれていました。石窟庵は花崗岩を手入れして積み上げ、ドームの型に築いてから上に土を覆いかぶせ、洞窟のように建てた人工の石窟寺院です。朝鮮時代の仏教弾圧などにより、長い間、存在が忘れ去られていましたが、1909年に雨宿りをした郵便配達員が偶然に発見しました。石窟庵は湿気が多い自然の障害を乗り越えて、自体的に換気と湿度を調節できる能力を持っていましたが、日本の大規模な修復工事で建立当時の石像の配置が分からなくなったり、コンクリートで補修され、石窟内部に蒸気が篭るようになり、人為的な換気装置を設置して現在は室内の湿度が常にコントロールできるようにしました。特に、360枚あまりの板石で作られた円形の主室のドーム型天井は、8世紀半ばの新羅人の科学水準を物語る建築技法として知られています。

入り口から前室・扉道(羡道)・主室(窟室)の3つに分かれていて、前室は本尊が東の方向(冬至に日が昇る方向と一致)を向くように設計されています。前室は直方体の形状で八部衆像・金剛力士像、扉道(羡道)は前室と主室の通路で直方体の形状に四天王像、主室(窟室)は円形のドーム型の形状で、本尊仏は降魔成道の釈迦如来を起源とする如来坐像を設置し、壁には十一面観世音菩薩像、十大弟子像、菩薩像、天部像などの石仏が掘り込まれています。高さ3.4m如来坐像の額には、ガラスが埋め込まれ、東から昇る太陽により石窟内に日差しが入ってくると、額のガラスが光るように設計されています。
前室
八部神衆
古代インドの異教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったもので、天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩喉羅迦の八神を表します。
金剛力士
一般には、仁王とも称されます。 左側の阿形像が密迹金剛、右側の吽形像が那羅延堅固で、羨道の入口を守っています。
扉道(羡道)
四天王
持国天は東方と春を司り、琵琶を持っていますが、これは草が芽吹き、生物が活動を始め、万物が蘇るのを音楽を奏でて祝福しているそうです。増長天は南方と夏を司り、疫病や毒虫を退治するため宝剣を構えています。広目天は西方と秋を司り、右手で龍を押さえ、左手には宝珠を携えています。これは龍が宝珠を持つと雨が降るとの言い伝えから、実りの季節が晴天に恵まれるようにとの願いが込められているようです。多聞天は北方と冬を司り、四天王リーダーで、この季節は農業ができないので勉強をするようにと、仏法の象徴である宝塔を手に掲げています。
主室(窟室)
梵天
インドの古代神話の神でしたが、釈迦如来を讃えながら仏法を守護する神として現れています。古代インドのバラモン教において万物の根源であるブラフマンを神格化したもので、仏教に取り込まれた後も、天部諸尊の中では最高位を占めます。韓国仏教美術に現れる梵天像の中で最も優れた彫刻として知られています。
帝釈天
インドの古代神話の神でしたが、釈迦如来を讃えながら仏法を守護する神として現れています。ヴェーダ神話において、天界の最強神とされます。左手にきれいな水を入れた水差しを持っていますが、これは衆生を治める道具になっているそうです。
普賢菩薩
一切菩薩の頭として仏陀の理・定・行・徳を担当する菩薩で、釈迦の右側で蓮を持ち像に乗った形相で表現されます。
文殊菩薩 文殊の智慧がでるといわれる文殊菩薩は智慧を象徴し、釈迦の左側で如意珠または刀、青蓮花を持ち青獅子に乗った形相で表現されます。(般若の道理を宣揚した知恵の菩薩で、般若経を結集したことで知られています。)
出発曜日

月(休み)/ 火(休み)/ 水 / 木 / 金 / 土 / 日(お勧めの出発日は毎週水曜日です。)


所要時間
交通手段
出発日時
主催会社
集合場所

一般ツアー
 3名以下 99,000 円 99,000 円
 4名以上 95,000 円 95,000 円
 7名以上 90,000 円 90,000 円
専用車貸切ツアー
0 円
0 円
0 円
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人数
大人 男 大人 女
小学生 幼兒
一般ツアー
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合計金額



     
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