国立中央博物館 국립 중앙 박물관

国立中央博物館 국립 중앙 박물관

国立中央博物館
韓国を代表する傑作中の傑作遺物10選は必ず見るべし

国仏教美術の最高傑作、弥勒菩薩半跏思惟像や敬天寺(キョンチョンサ)10層石塔などを見します。東洋のモナリザと言われる日本国宝の京都の廣隆寺の彌勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)よく似ている韓国国宝83号の金銅彌勒菩薩半跏思惟像を見学。二つの仏像は百済仏教の美の頂点の美しさをもう一度、感じさせます。
国立中央博物館は約15万点を所蔵する博物館。世界で6番目に大きい博物館として注目を集めています。
考古学や歴史、美術など各分野で非常に価値の高い文化財の展示が行われていて、韓国文化を知る上で見逃すことのできない場所です! 

19089月、純宗(スンジョン)皇帝の時、朝鮮皇室博物館としてスタートし、190911月から一般 人に公開されることになりました。その後、19383月、徳寿宮(トクスグン)の石造殿周辺に李王家 の美術館を建立し、1945年に韓国の主権が回復された以後、徳寿宮(トクスグン)の美術館として 存続されていたが、19695月に国立中央博物館に統合されます。
1950
年の韓国戦争(朝鮮戦争)の時には、釜山に避難したが、1953年にソウルに還都してから、景福宮(キョンボックン)に移された。 その後、195311月に徳寿宮(トクスグン)の石造殿に再び移転した。そして1972年に再度景福宮 (キョンボックン)内に移転、1996年景福宮横に移転し、200610月に竜山家族公園の近くに 新しくオープンしました! 

国立中央博物館の主な展示スペースとなる「常設展示館」、そして様々なテーマに沿った展示を 行う「企画展示館」、そして子どもたちが様々な体験を通して学ぶことのできる「子ども博物館」、 また野外庭園と様々な石造遺物を展示した「野外展示館」もあります。

常設展示館は、3階に渡って 続く広大な展示スペース。3階分のフロアを突き抜けてそびえる10層の石塔は訪れた客の目を引き ます。1階は旧新石器時代から渤海時代までの「考古館」、2階は絵画や書、工芸などの「美術館」や「寄贈館」、3階は今回のリニューアルオープンを機に新しく生まれた展示スペース「アジア館」!中国、インドネシア、中央アジア、日本室と新安海底文化財室、楽浪時代の遺物を展示した楽浪 遺跡出土品室があります。「美術館」では陶磁と金属工芸、仏教彫刻の展示があり、華やかな 韓国の仏教文化に触れることのできるスペースとなっています。 

企画展示館では、期間ごとにテーマをさまざまに変えて展示を行う企画展示館。(常設展示館を 見終わってから企画展示館に行く観覧順序となります。)子ども博物館は子ども達が体験を通して学べる展示館。館内には体験学習を手伝う役割をする先生も駐在しています。入場者数に制限を 設けているため、チケットを買うとき何時に利用できるのか確認してくださいね
野外展示館、 ここでは普信閣鐘を始めとする国宝や文化財約10点を含む展示物がある野外展示館。
石塔や石碑など様々な文化財を見ることができます。 

また、常設展示館入口にある案内デスクでは、日本語ができる案内員が待機しています。 日本語のパンフレットももちろんあります。そして嬉しいサービスなのが「日本語対応デジタルガイド」 ですね。展示物をより理解できるように、映像付きPDAガイドと音声ガイドの貸し出しをおこなっています。利用料はPDA3,000ウォン、音声ガイドが1,000ウォン。(貸し出し窓口は常設展示館入口の案内デスク右側となっており、レンタル時には身分証明書が必要となります。)

国立中央博物館を代表する傑作中の傑作遺物10

.金銅弥勒菩薩半跏思惟像(金銅三山冠半跏思惟像)
(国宝第83号、三国時代、7世紀前半)
東洋のモナリザと言われる日本国宝の京都の廣隆寺の彌勒菩薩半跏思惟像瓜二つ

 金銅弥勒菩薩半跏思惟像(金銅三山冠半跏思惟像)
完壁に近い造形性と哲学的・宗教的な深みで東洋美術史の記念碑的作品と評価を受けています。
上半身と下半身の調和、手先・足先の纎細な表現など
弥勒菩薩半跏思惟像は見る対象の気持ちによって、少しの悲しみ、少しの悩み、峻厳な表情、口元に含んだほほ笑み、生きて呼吸しているような感じもあります。個人的には未少年のような誰もが惹かれそうなすんなりした体、曲がっている足指が‘思索の中の苦悩の瞬間’を表現し、足指に力が入っているように見えて人間的な親しみを感じ、すべての距離感がなくなる気がします。

弥勒菩薩半跏思惟像は高さ90.9㎝のこの金銅仏は製作地が百済か新羅かまだ結論が出ないままです。国宝 78号の半連思惟像と双壁を成していますがこの金銅仏がもうちょっと白くて清いほほ笑みと飾らない素朴, 立体的造形の‘小さな差’で83号が優先されます。

京都廣隆寺の彌勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)
木彫仏(飛鳥時代の木彫仏はすべて材質が樟なのにこの思惟像は材質が赤松)
 赤松は当時の日本には自生していなかった木で、使われた赤松は韓国の慶尚北道青松郡周王山一帯に
 自生するもので、新羅からの渡来仏と推定されています。
・木彫仏の上に漆(うるし)がもられ金箔がおされていた金色弥勒菩薩と考えられる。
・彫り方は飛鳥像と異なり、木裏から彫って、頭部から右手指まですべて一木から刻み出しています。
・台座に腰掛け、右足の先を左大腿部にのせて足を組み、折れ曲げた右膝頭の上に右肘を突いて右手を軽く右頬にふれて思索する造形の美しさ、唇の端に幾分笑みを浮かべながら、静かなまなざしで見下ろす清楚な顔、品のある優しさ。眺めているだけでこちらの気持ちまで安らいでくるよう。
 

2.弘道 檀園風俗
(宝物527号、朝鮮18世紀)

“朝鮮時代の庶民の生活ぶりや韓国的な感性まで画いた朝鮮風俗画家弘道

檀園風俗図帖は、朝鮮王朝後期の画家金弘道が描いた、25図からなる風俗画です。
弘道は朝鮮王朝後期を代表する画家金弘道(檀園)・申潤福(蕙園)・張承業(吾園)とともに「三園」と称され、金弘道・申潤福・金得臣とともに「朝鮮三大風俗画家」と言われる。
姜世晃に画を学び、図画署画員、王族や王の肖像画を描き、山水画・人物画・花鳥画・風俗画など描き、朝鮮時代の庶民の生活ぶりや韓国的な感性が感じられる風俗画を多く描き残しています。
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世紀朝鮮の庶民たちの日常生活をカメラで撮ったように現わしながらも韓国的感性をいかした絵たちは正祖の王様に見せるための一種の国政報告書’だったという説もあります。

※絵の見方
当時の視線で絵を見る為には同じ見方で右側から左に、上から下へ見なければならないです。
昔の絵は構図が右側から左になっていて現在の慣れた左側から右側に感想をしたら主題部分を取り外して絵を見られる場合があるそうです。
檀園風俗
帖の中の一部の絵をよくみたら、絵の中の人物の手の左側と右側が変えられていたのが発見できます。わざと楽しみを残したかも…

3.百済金銅大香炉(百済金銅竜鳳蓬莱山香炉)

(国宝287号、百済時代、6~7世紀)

 百済精神と芸術の完成金銅大香炉

 

済金銅大香炉の高さは61.8cm、胴体の直径が19cm重さ11.8キロで、199312月に扶餘邑稜山里で出土され、均衡と調和・精緻な細工が評価され、韓国の国宝に指定されました。
この香炉は百済が夫餘に都を移した後、政治的な安定を取り戻した7世紀初めの百済人たちの精神世界と芸術的力量が含みされて成り立った百済金属工芸品の真髄だと言えます。


上.蓋の最頂部には顎の下に如意宝珠をはさんだ一羽の鳳凰がとっまっています。
  
天上世界には天下が呑気な時現われるという鳳凰の姿を象徴的に表現しました。
.胴部は全体が蓮の花のつぼみの形をどっています。
 蓋の鳳凰の下では5人の楽士が楽器を演奏しており、5つの山嶺にはそれぞれ一羽の鳥がとまって鳳凰を
 迎えています。
 
地上の世界には不老長生する森羅万象を表現しました。
.脚部は竜が天空を仰ぎ香炉をくわえている姿が表現されています。
 
水中の王である龍が支えてその上には蓮の花と水中生物を表現しました。


百済人の精神世界を繊細な金属工芸で表現した百済金銅大香炉は、一匹の竜が胴体を挙げ、24個の蓮の葉や魚類、74個の峰、6個の木、12箇所の岩、鳳凰や竜を始めとする想像の鳥、虎、鹿など39匹の動物、笛や琵琶、鼓などを演奏している5人の樂士や武人像、騎馬狩猟像など16人の人物像、山道、小川、滝、湖などを精密に表現した世界的な文化財で、いくら眺めていても飽きのこない名品です

中国の神仙思想(道教)による博山炉(博山は別名蓬莱山)のように仏教の供養具として使われたという考え方と、それとは異なり、神宮に奉安されて百済王室の「建邦之神」をはじめとする祖先神と神霊を祀る祭器であったとする考え方があります。

 

4.皇南大塚金冠
(国宝191号、新羅時代、5~6世紀)

 新羅黄金文化の燦爛たる光「金冠」


韓半島に存在した多くの王朝の中で新羅を代表する文化財は何といっても金冠が最高であるでしょう。洗練されたデザインに派手な飾りと燦爛たる黄金色を誇る金冠は全世界に残っている 10余点の金冠(金銅冠除外) の中8点が韓国にあるほどに世界に出しても全然劣らない位です。そしてその 8点の金冠の中で 6点が 56世紀の新羅の物で, 残り2点は伽揶の金冠です。

新羅黄金文化の燦爛たる光‘金冠’、新羅金冠の翡翠勾玉・丸く付いた飾りも豪華ですが,風が吹けば動きながら太陽の光を受けて燦然に輝く力と権威を象徴するその派手さ…。

皇南大塚金冠は新羅の冠飾りを代表する外冠で、出字形立飾りと鹿角形立飾り付いています。「出」の字形は木の枝を、鹿角形は鹿の角を図案化したもので、こうした形の冠はシベリアシャーマンの冠に似ています。
勾玉は韓国や日本でのみ出土される装身具で、天然石のものもあるが多くは瑠璃・ガラスです。1-3世紀の遺跡からは瑠璃玉と瑠璃勾玉の鋳型が発見されています。瑠璃勾玉の起源と生産地は議論のあるところですが、朝鮮半島で独自に生産されていたともいえます。

ところで知りたいことは金冠が製作された時期の王たちは本当に金冠を頭にかぶっただろうかと言う点です。
実用品?葬礼用?儀礼用?という三種類お正説があるがまだ疑問のままで残っています。
金冠も王冠と言えたら帽子のように頭にかぶったと考えられるもののそれは推論であるだけ実際ではそうではなかったです。ミステリーはこの金冠の主人が女性だったということで、王妃の墓と知られた黄南大塚の‘北墳’から出土され、王の墓‘南墳’には金冠がなかったと言うことです。

5.騎馬人物形土器
 (国宝第91号、新羅時代、56世紀)
“韓国のドンキホテと山草の姿?

慶州市の金鈴塚は慶州の新羅古墳のうちでも王族の墓と考えられていますが,ここで有名な騎馬人物形土器(主人と者の2つの騎馬人物形土器)が1924年に出土されました。

主人像は高さ23.4,長さ29.4㎝で,像は高さ21.3,長さ26.8㎝で、慶州市にある金鈴塚で船模様の土器とともに出土され、者の右手には滴みたいなことを持ち、荷物を担いで遠い旅に出る主人の道案内者のようで儀式用に特別に製作された器と考えられます。

二つの人物像は厚い直四角形の板の上に足が短い小馬に乗った人が座っている姿で、馬の尻の上には下に穴のあいたがあって, 前胸には水を注ぐ長いくちばしが突き出され、空いている馬の腹の中を通じて水を注ぐことができるようになっています。

二つの人物像の姿は馬の飾りが派手な主人像の場合帯と飾りがある三角帽の豪華な冠帽をかぶって、よろいを着、馬には杏葉,雲珠,障泥,,革具などの馬具類を完全に取り揃えています。像はタオルを縛り付けた丁まげ頭に上衣を脱いだもっぱら身で背に荷物を負い、右手に滴みたいなことを持って道案内をしているようで、馬の飾りも主人像より不始末な方です。

二つの人物像は新羅人の霊魂観と当時の服装, 武器, 馬の飾り状態,工芸意匠などに対する研究にすごく重要な資料になる遺物です。

 騎馬人物形土器(国立慶州博物館)
(国宝第275号、伽揶時代)

“生死を超越して守り続ける守護天使、伽揶騎馬兵?

三国時代作られたことと考えられる馬に乗っている人の姿は高さ23.2,14.7, 直径9.2㎝の人物型土器で、喇叭(ラッパ)模様の下敷の上に直四角形の平たなを設置し,その上に馬に乗った武士を乗せました。下敷は伽揶の苦杯と同じ形態で,二つの竝びで穴があいています。下敷の4角には馬の足があります。

特にいまだに実物が伝えない盾をリアルで表現していて注目される. 武士の背中側には双角模様の杯を立てて置きました。

馬の馬甲を非常にリアルで描き、馬の鬣は直線で整えられ、馬の背中にはよろいを着て武具を取っている武士像を座らしておき、両方足を輪鐙(馬に乗って座って二つの足で踏むようになっている品物)の上にあげています。 武士は頚甲(首を保護するよろい)をかけ、右手には左手には盾を持っているのに盾の表面に菱文が刻まれています。

武士の背中には双角杯をつけましたが金鈴塚で出土された騎馬人物型土器や鶏林路で出土された瑞獣形土器の背中部分の漏斗模様の盞形がつけられたことと同じ用途で使われたように見えます。

この騎馬人物型土器の持つ価値は非常に大きく、伽揶の馬具と武具を研究するのに貴重な資料です。

6.敬天寺十層石塔

(国宝第86号、高麗時代、1348年)
“高麗王室の天寿万世を祈る代理石塔

敬天寺は京畿道開豊郡光德面扶蘇山にあったお寺で、高麗時代前期に創建されたことに推定されます。敬天寺に建てられていたこの塔は日帝時代に日本で無断に搬出されたことを返してもらって1960年に景福宮に移して建てておいてから現在国立中央博物観に移しておきました。
塔の構成は3階の部と10階の塔身部・相輪部で構成され、材料は全体が灰色の大理石になっています。

優美で手のこんだ高さ13.5mの大理石製の敬天寺十層石塔3段になったは上から見れば亜の字模様で、上に上がるほど小さくなっていき、4階から10階までは塔身の大きさが同じくなっています。と塔身にはお釈迦・菩薩・草花柄・竜などがすぐれた彫刻手法で刻まれ、4階からは各塔身石ごとに欄干を回し,屋根石は横から見れば八の字模様で瓦を表現して置くなど木造建築を連想するようにする豊かな彫刻が纎細に刻まれています。塔の1階の塔身石に高麗忠穆王4(1348)に建てたという記録で作られた年代を正確に分かります。新しい様式の石塔がたくさん出現した高麗時代でも特殊な形態を誇り、韓国の石塔の一般的な材料がお影石なのに比べて大理石で作られたという点も特異です。このような建築様式は朝鮮時代に至って円覚寺址十層石塔に影響を与えました。
日本に搬出されながら毀損され、元々の塔形態を国立文化財研究所の復元作業を経って現在は新たに開館した竜山の国立中央博物観に展示されています。
当時の中国は元の順帝が執政した時期で、順帝の奥様が高麗人なので、高麗では皇后親戚の親元勢力の権勢が空を突くよう、敬天寺に元の繁栄と高麗王室の天寿万世を祈る代理石塔を建てるようになった歴史的背景で元国の影響をたくさん受けた特殊型の石塔です。

塔が日本に搬出され
1907
124日の純宗(朝鮮王朝最後の王)の結婚祝賀に天皇の特使として列した田中光大臣(東京帝室博物館の最高責任者も兼務)が19072月初めに武装憲兵を含む7080人の日本人を送って敬天寺の石塔を解体し、日本の東京帝室博物館(現東京立博物館)に1907319日に運びまれた。

1886年から朝鮮の育事業近代化のために朝鮮にていたアメリカ人の者でありジャナリストのハルバトの新聞・雑誌を通した活動により、朝鮮へ石塔が戻って、現在韓国宝に指定されている。

7.銅半跏思惟像

 (国宝第78号、三国時代、6世紀後半)
静かな表情に未少年のような姿で、一瞬息を止める美しさ

静かに目をつぶって深い冥想に入った姿が国宝 83号半連思惟像と似ていたが, その表情はずっと成熟したように見えながら悟りの境地に近い感じを与えています。

太陽と三日月を結合したような飾りの派手な宝冠、すんなりした力があふれる身体の曲線、天衣の裾と腰巻のリズミカルな流れ、高さが 82.9cmもなるにも厚さを24㎜で維持した高度の鋳造技術、美術史学者はふっと静かに見えるが偉い菩薩精神の生命力を躍動的に表現した記念碑的作品”と言いました。この仏像を高句麗で作ったことで見ていますが、百済説も新羅説も相変らず行き違っています。

1912年に日本人が手に入れて朝鮮総督府に寄贈したことを1916年総督府博物館で移しておき、現在は国立中央博物観で展示しています。上半身は堂々ながらも真っ直ぐですらりとしている姿で,下半身は優雅な曲線美を感じ、すらりとしている腕や体つきに比べて手や足は相対的に大きい方です。全体的に均衡取れた姿勢、美しい服のしわ、冥想に掛かったような妙な顔、弾力があって柔らかい菩薩像の優雅な姿などで韓国的菩薩像を成功的に完成させた作品と考えられます。

8.延嘉七年銘金銅仏立像

(国宝第119号、三国時代、6世紀後半)

ポケットに入れたいほど小さく可愛い高句麗

高句麗と係わる文が刻まれている仏像で, 昔の新羅地域である慶尚南道宣寧地方で発見されたことが注目されます。光背裏に残っている文によれば高句麗の平壌にある東寺の僧侶たちが世の中に広げるために造った像の一つで29番目のもので全体高さは16.2cmです。小さなさざえ模様の髪の毛を付けた頭は三国時代仏像では類例が珍しく、丁まげ模様の頭束ねがあります。顔は比較的小さいく、ほほ笑みを漂って、左手の三番目と四番目指を曲げている姿は三国時代仏像で現われる特徴的な姿です。特に厚い服に包まれた身体は屈曲の表現がないが、全体的な体つきとちょっと見える肩の骨格などで強靭な力を感じらせます。

やや下向きの顔、厚めの燃えるような光背の花火柄、光背裏に残っている文と強烈な感じを与える表現方法などで6世紀後半の代表的な高句麗仏像と見えます。美しい舟形光背がを包みむようです。1967年の徳寿宮の美術館で展示中に盗まれてから漢江鉄橋の下で取り戻したこともあります。

9.山水文塼

(宝物343号、百済時代、7世紀)
山水画で画かれた歩道ブロックを歩く百済人

王宮やお寺で歩道ブロックのように敷いて歩いたおしゃれな百済の道の山水文塼
忠清南道扶余郡窺岩面外里にある昔の寺の跡で出土され、多様な文様と形象を刻んだ後、焼いて作った百済時代の煙瓦()です。山水文塼・山水鳳凰文塼・山水鬼文塼・蓮臺鬼紋塼・蟠龍紋塼・鳳凰文塼・渦雲紋塼・蓮花紋塼で8枚の煙瓦が発見されました。この煙瓦は正四角形に近く、長さ29㎝、厚さ4で、 四角にはそれぞれホームがあり、各煙瓦を連結して敷くようになっています。

山水文は古代柄中一つで神仙思想を土台に、下端には水、中端には3個の峰でできた山、上端にはめでたい雲が浮かんでいます。峰ごとに松森があり、真ん中の高い峰には丸い輪郭がきわやかであり, 山水文塼は規則的に配列され、 左右が対称を成している均衡の取れた構図で, 敍情的な雰囲気を催します。
この山水文塼は建築物等の材料に飾られた柄であり、韓国の山水画の発達の初期過程を研究するのに重要な資料です。

 

10.靑磁陰刻唐草文梅甁

(国宝第97号、高麗時代、12紀)
曲線美に惹かれる高麗青磁

実は高さ43.9㎝のこの大型梅瓶は高麗青磁特有の曲線美と洗練された翡色の姿態を惜しみなく見せてくれる名品です。柔らかいながらも豊満な肩、柔軟な腰、細めとやや広めの安定感を与える曲線は視覚的快感を与えます。‘陰刻’と言うのは彫刻のような道具で器表面にホームを出して柄を刻む方式です。大まかに引き出した柄は蓮の花をくるみながら甁が成す曲線を逆わなく調和を成し、2次元ではなく 3次元で刻んだ柄です。 表面には網模様の氷裂があり、全羅南道康津で焼いたことに推定され、12世紀の高麗順青磁の全盛期の作品と見えます。

神秘な青磁はみる人によって色っぽい女性美・肩の広い男性美を感じるそうです。

 

続きの傑作遺物13(時間の余裕がある方にお勧め)

11.白磁大壺 (月壺)
(国宝第262号、朝鮮時代)
“素朴で実用的な朝鮮磁器”

立壷でも円壷でも大きいかめは成形及び燔造に難しく一度にロクロで仕上げる場合はほとんどなく、上下部分を別々に作った後に二つの部分を接合させて完成させることが一般的です。
大きさがまず圧倒的で、朝鮮時代白磁の特徴の穏やかな白色・柔らかい曲線・タップリして飾らない形態などがすべてよく揃った月模様に似ていて月壺とも呼ばれています。京畿道広州地方の官窯で作られたことに推定されます。
朝鮮時代の丸いかめは 17世紀末頃から 18世紀中期に至る期間にかけて作われたことを造形的に一番高く評価しています。この時期のかめはその数も多く傑作も多いですが、このかめはこの時まで発見された中で大型だけでなくこぎれいで素朴ながらも実用的な朝鮮時期磁器の代表する作品です。
このような白磁月カメは西洋人からも韓
人からも一番韓的情が漂う陶磁器で, 丸い体つきと白い色などで親近感が自然に染み出る作品です。このかめは際使う器として州分院でお皿とともに一番多く焼いた磁器で、朝鮮時代の家庭では一二個ずつおいて使っていたものでした。


12.
白磁鐵梅竹文大
(.
国宝第166号、朝鮮時代)
“庶民的梅・竹絵のすぐれた朝鮮粉青沙器

朝鮮時代の素朴で庶民的な磁器に画かれた一幅のを連想させる。

朝鮮時代白磁かめで高さ41.3㎝、首部分の傾斜面から豊満に広がり、徐徐に細くなる丸い体つきのかめです。濃淡が入った黒い顔料で首と肩部分に雲柄と花びら柄を回し、下の部分には連続された波柄を飾りました。体つきの片面には竹を、片面には梅切り株をそれぞれ描きました。陶器面に灰青顔料・鉄砂・辰砂でそれぞれ模様を描き釉薬をかけて焼いたものです。このようなかめの形態は16世紀粉青沙器で見えます。肩部分と下の部分に表現された柄は17世紀前半期の柄に梅・竹の模様や明るい釉薬色から見て16世紀後半頃の京畿道光州一帯で作られたことに推定されます。梅と竹の絵は腕前がすぐれて宮廷画家が描いたように見え、鐵白磁かめとしては初期の物で、堂々で豊満な姿に、すぐれた腕前で梅と竹を表現した文様と形態がよく似合う優秀な作品です。
釉色は淡青を含んだ灰白色の白磁釉が全面にきれいに塗られていて釉氷裂は見えないです。

13.白磁鉄画繩文瓶
(
宝物第1060号、朝鮮時代)
“ふと手を伸ばすほど錯覚させる紐の模様、朝鮮白磁

磁器に描かれたS字形の垂紐文が本の紐のように錯させます。
朝鮮時代作られた白磁で黒い色の顔料を使って縞模様を描いておいた、高さ 31.4, 口直径 7, である酒瓶です。口が喇叭のようで、首は細く、胴は徐徐に広くなって下の部分がふくらんでいる形態をしています。文様は青色で先に首に紐を巻き、その本が下に長く垂れてから丸く巻いた姿を描きました。その上に黒い色の顔料を柔軟な筆遣いで濃淡をまぜながら表現し、内側底にはハングルが刻んでいます。朝鮮時代の鐵白磁は15世紀後半から作られたが, 1516世紀にはその例が珍しい.この16世紀後半頃の物で珍しいだけなく, 紐を首に巻き、下に垂らした珍しい文様で朝鮮初期の代表的作品です。

14.青磁素文瓜形瓶
国宝第94号、高麗時代

“直線と曲線の美しい調和、高麗青磁

京畿道長湍郡にある高麗仁宗の御陵で‘皇統6(1146)’と言う年度が表記した本とともに発見された花瓶で、高さ22.8㎝、口直径8.8㎝の大きさです。真桑瓜模様の体つきに花をくちばしにして表現した非常に貴族的な作品で長い首にスカートしわ模様の高台の淑やかで粹な花瓶で、淡緑色が漂う清い秘色の釉薬が薄く全面にきれいに塗られています。高麗青磁全盛期の12世紀前期に作られたことで優雅で淑やかな姿と秘色の仄かな釉色が引き立つ真桑瓜模様花瓶の中で一番美しい作品に評価されています。

15.青磁七宝透刻香炉
国宝第95号、高麗時代、12世紀
宇宙の香りを背負っている三匹の可愛い兎、高麗青磁

下敷の役割をしている三匹の黙々と可愛い兎。
高麗前期の青磁香炉で、高さ15.3㎝、ふたと胴二つの部分で構成されています。ふたは香が立ち上って広がるようにくぐって飾った球形部分とその下に下敷部分になっています。球形部分のあちこちの交差点には白い点が一つずつ飾られ、胴は二つの部分で上部は丸い火鉢形態で何重の菊葉で包まれていて、大きな菊葉がこれを支えています。下の部分は香炉の体つきを支えて台座があって3 匹の兎が背中で担いでいます。台座の横面には葛柄が刻まれ、兎の目は黒い点を付けて現わしました。釉薬は灰青色で仄かな光沢が出て、この作品は象嵌青磁の一種で見られるのに高麗青磁では珍しく多様な技巧を使った作品だと言えます。工芸的な纎細な飾りが多いようながらも全体的に調和と均衡がよくつかまった安定感いるすぐれた青磁香炉です。
高麗時代の陶磁器を代表する青磁は陰刻・陽刻・透彫・印花などの技法が駆使され、高麗青磁独自の美的世界が生み出されました。青磁透彫七宝文香炉は透彫や貼花などの技巧を用いた造形美あふれる名品です。

16.青銅銀入糸蒲柳水禽文浄瓶
国宝第92号、高麗時代
優雅な曲線美を醸し出す高麗銀入糸浄瓶”

高麗の金工芸術が高い水準の優雅な浄瓶。
高麗時代の代表的な金属工芸品の一つで、高さ37.5
cmの浄瓶です。
肩と台の上に花模様を回し、その間に葦が茂って糸柳の垂れた丘があり、周りに鴨を含めて水鳥たちが永いだり飛びあがる敍情的な風景を描きました。遠い山には列をなして渡り鳥が飛んで、水の上には船が画かれています。これらは青銅土台に銀を飾った銀入糸技法を使って、銀象嵌柄です。水を注ぐくちばしにはふたが覆わせているのに穴をくぐって飾る技法で葛柄を刻んで、その横面には蓮華柄を配置しました。.この浄瓶は形態において安定感あって流麗な曲線美を見せ、瓶を表現するにおいて高麗前期から大きく発達された入糸技法、すなわち銀を埋めて飾る技術を発揮しています。現存する高麗時代の銀入糸浄瓶は多いですが、この浄瓶は調和と優雅な姿の面で一番すぐれた作品と知られています。

17.青磁飛竜形注子
(国宝第61号、高麗時代)
“やかんでは竜と魚の共存する世界

高麗青磁の全盛期の12世紀頃に作られた青磁やかんで、高さ24.4cmです。竜頭と魚の身を持った特異な形態の動物を形象化しましたが、このような魚模様は昔から火事を予防するための象徴的な意味で建築物に飾りました。水を注ぐ所は龍の形で、歯とひれ、しっぽ端には白土を塗り、顔の毛やひれたちを非常に細くて纎細に表現しました。やかん体つきには鱗が目立つように表現され、中央部には先後で大きな熊手模様のそばひれが描写されました。取っ手は蓮華の枝模様で自然に垂れていて、ふたは魚の尾部を倣って作っています。全体的な構造で見ると奇妙ながらも各部位を取り揃えた一匹の想像の動物姿をしています。釉薬色といっしょにひれと花模様に現われた細密な陰刻表現は上手な腕前を見せてくれます。このやかんはめでたい動物や植物を模倣して作った象形青磁の中でも非常に奇抜であることを見せてくれる作品です。

18.春宮里鉄造釈迦如来坐像(高麗鉄仏)
(宝物第332号、高麗時代)
東洋最大で、堂々な美しさあふれる高麗鉄仏

高さ約3メトルの高麗鉄仏は東洋で一番大きい鉄仏。
京畿道広州郡東部面下司倉里の廃寺址で発見された高麗時代の鉄仏座像で、顔は丸く、たかく上がった目、閉じた小さな口、鋭い鼻の表現で慈悲深さが減って観念的に変わって行く高麗時代仏像の特徴をうかがうことができます。首には3列のしわである三道が明らかに表示されているが、胸まで下って首の限界を明確に区分しなく、右側肩を出して左側肩だけくるんでいる服には簡潔な服のしわが表現されました。堂々な肩と著しい胸は石窟庵本尊仏の様式を受け継いだことであり、鋭い顔印象と簡潔な服のしわの表現は高麗初期仏像の典型的な表現技法です。統一新羅仏像様式を充実に受け継いだ高麗初期の典型的な作品で、今まで知られた鉄仏の中で一番大きくて彫刻が優秀な東洋彫刻史の記念碑的な作品です。

19.泉隠寺掛仏幀
(宝物第1340号、朝鮮時代)
“雲の中から現れた朝鮮のお釈迦様

高さ9メトルの全南求禮郡泉寺掛
釈迦の姿が単独で描かれた掛け仏で、掛け仏と言うのはお寺で大きい法会や儀式を行うために法堂前庭にかけておいて礼拜を差し上げる大型仏教絵を言います。泉
寺にあるこの掛け仏の大きさは長さ894㎝、幅 567㎝で巨大な画面に一杯になるように正面を向けている釈迦の姿を描いています。朝鮮顯宗14(1673)に敬心・志鑑・能聖などの画員が画いたこの掛け仏は独特の彩色、文様などから17世紀後半の新しい傾向を見せてくれる重要な資料として評価されます。

高さ 9mの巨大な画面いっぱい描かれた釈迦牟尼仏は正面を見つめ、目鼻立ちの筆線は簡潔で、顔と首部分の軟粉紅色陰影は優雅です。まるで雲の中に立っているように四方に一杯な雲紋が神秘感を加えています。 

20.阮堂歳寒図
(国宝第180号、朝鮮時代)
技巧でなく節制と省略を余白で表す朝鮮芸術家金正喜

韓国文人画の最高傑作である秋史・金正喜の「歳寒図」。
秋史・金正喜(17861856)は実学者で清の考証学の影響を受けて金石学を研究し、すぐれた芸術家で秋史体を作った文人画の大家でした。この作品は金正喜の代表作で横69.2㎝、23の大きさで、この絵は彼が1844年済州島ので画き、絵の端の部分には自分が直接書いた文があります。この文では師弟間の義理を忘れなく北京の珍しい諸本を持ってきてくれた弟子との理想的の人柄を松と五葉松に比喩し、お返しで描いてくれたのが明らかにしています。一軒の家を中心に左右に松と五葉松が対称を成し、周りをがらんとした余白で処理して極度の節制と手短であることを見せています。右側の上には歳寒図という題目が掛かれて、荒くて乾いた筆づかいを通じて一軒の家と枯木が漂ううら寂しい雰囲気が寒い冬の雰囲気を清くて清絶するように表現しています。乾いた筆づかいと墨の濃淡、簡潔な構成などは志操高い作家の内面世界を見せ、人為的な技術と虚飾的な技巧注意に反撥して極度の節制と省略を通じて文人画の特徴をうかがえる朝鮮後期の代表的な文人画に評価されています。

21.尹斗緒像
(国宝第240号、朝鮮時代、17~18世紀)
“鏡より纎細にもう一人の自分を画いた朝鮮画家尹斗緖

尹斗緖が直接画いた自分の自画像で大きさは横20.5㎝、縦38.5㎝の大きさです。
尹斗緖(16681715)は孤山・尹善道の曽孫子で朝鮮後期の文人や画家でした。紙に薄く彩色して描いたこの絵は画幅全体に顔だけが描かれて身は省略された形態で視線は正面を眺めています。上部を略した宕巾をかぶって目はまるで自分と対決するように前を見て厚ぼったい唇にひげは一本、一本を纎細に表現しました。画幅の上部に顔が配置され、下長く垂れているひげが顔を上に支えるようです。自画像の中でも尹斗緖の自画像は表現形式や技法が珍しく、すぐれた作品に評価されています。

22.楹塚(高句麗古墳壁)
高句麗時代、5世紀)
1500年前に描かれた色合いが鮮やかで描写が簡潔な人物風俗図と四神図

北朝鮮の国宝文化遺物第39号に指定され、2004年にユネスコ世界文化遺産に登載されました。この壁画の墓は前室と玄室がある二室墳で、前室と玄室の通路左右に8角石柱が一つずつ立てられていて双楹塚と呼ばれています。前室と玄室に人物風俗図と四神が描かれています。前室は東西 2.32×2.27m、玄室は東西 2.77×3.01mで、前室と玄室の天井は平行三角支え式で、前室の南壁中央に玄室に通じる羨道があります。羨道の東西の壁には車・騎馬人物・太鼓打つ人と踊る人、これらに付く30余名の行列図が描かれていて羨道の左右に守門将が一人ずつ描かれています。

前の部屋には東西壁に青竜と百虎、南壁に人物像、四角に柱と(ますぐみ)描かれ、羨道の石柱には蟠竜が描かれています。玄室の東壁には仏教意識を行う供養も、北壁には主人公夫婦の室内生活図と玄武、南側壁には朱雀が描かれ、西の方壁には帳幕がみえますが、明らかではあります。
壁画の人物たちは身分の差及び性別によって身なりはもちろん大きさが違うように描かれ、四角には前室のように柱と(ますぐみ)が描かれています。前室と玄室の天井は唐の草模様や鳳凰模様、雲模様、蓮の花模様などと日と月を象徴する三つ足烏とひき蛙などを描きました。
壁画は墓内部の岸壁に石灰を塗った後アウトラインをして輪郭内側に白の鉛顔料を塗った後に絵を描きました。身なりと当時の風習を実感できるように見せてくれる遺跡です。色合いが鮮やかで描写が簡潔な人物風俗図と四神図が混合した5世紀中後半のこの壁画古墳は高句麗時期の生活ぶりと衣服研究に重要な資料です。

高句麗古墳の壁画は何を描いたか?

1.高句麗の住居と食生活

徳興里古墳の壁の絵は墓主人公の生前の姿を画いたことで、このような壁画を人物風俗図だと言います。高句麗人々はどんな形態の家で何を食べただろうか? 高句麗人たちの跡が高句麗の古墳の壁画にいきいきと再現されています。

2.高句麗の遊び文化と余暇生活

修山里古墳は壁画の中で特に目立つことは外出場面で、を連れて外出に出た貴族が何かを注意深く見ているのに、それは驚くべきことにサーカスです。一緒に付いて来たたちも興味津津な表情です。この以外にも壁画に刻まれた高句麗の遊び文化は非常に多様で動感があふれます。
3.高句麗の服飾

安岳3号墳の壁画の人物たちは派手で格調があります。主人公はいかめしい風体で座って、奥さんのような女は髪模様と身なりが派手で、彼女そばにある侍女たちも同じです。この壁画は高句麗古墳の壁画の中でも規模が一番大きくて幾多の人々が登場するから高句麗の独特で多様なファッションを研究することができる重要な資料です。
4.
高句麗の莫強した軍事力

安岳3号墳の行列島は一番多い兵士が登場する壁画で、車に乗った主人公の出行場面を描いた行列島は登場する人物だけでもおおよそ250人に達します。この行列島で主人公を取り囲んで行進している武士を見ればひととき東アジア最強の軍隊で名前を揚げた高句麗軍の力を感じることができます。
5.
壁画の秘密

イエロー・赤・みどりなど今も鮮かな色相を維持している古墳の壁画はおおよそ1500年前に描かれたものです。 高句麗の歴史をいきいきと伝えている高句麗古墳の壁画の秘密は何でしょう。現在国立中央博物館には雙楹塚の壁画切れが一点保管されていて、雙楹塚は北朝鮮にある高句麗古墳で5世紀末に築造された墓です。この雙楹塚の壁画切れを燎微鏡でのぞき見たら断面で赤い色と黒い色の顔料()が現われました。
6.
江西大墓の内部と四神図

北方の神さまである玄武(めすの亀とおすの蛇がお互いに練れている)、西方の神さまである百虎、南方の神様である朱雀、東方の神さまだる青竜、この四つの動物の絵は高句麗絵画芸術の極致を見せてくれて壁画芸術の最高峰で指折り数えられています。金大中大統領も北朝鮮へ行った時に時間をだして尋ねるほど有名です。

7.天下の中心, 高句麗

水準の高い芸術とした高句麗の国力。その頃、高句麗は北東アジアまでおよぶ位に強い力を持って、自らを天下の中心だと思って堂々な生の姿勢と自信感を見せて来ました。高句麗壁画は現在の人々にもそれを伝えています。

 

23.伽揶室の鉄器甲
伽揶時代)
“伽揶の力,

古代社会において鉄器文化の収容と拡散は古代国家形成の基盤になって、戦争を通じる領域の拡張は必須なことでした。新羅は金工品を権力の象徴物で使いましたが、これに反して伽揶では6世紀中頃まで鉄で作ったよろいが権力の象徴でした。洛東江下流を中心にした伽揶は4世紀には大型の墓にだけ附葬された5世紀になると周辺古墳群あるいは小型古墳でも出土されます。5世紀中頃になればよろいは伽揶の全地域で拡散して最上層墓にはかぶと・腰しゃへいなどが一括附葬され、このような現象は当時の政治的権力が力強い軍事力を背景で成り立ったことを明らかに見せてくれるのです。

このよろいは胸版と背中版にワラビ柄が刻まれ、羽毛で飾った跡が残っているなど派手な形態を維持しています。これは高句麗と百済だけではなく日本, 中国でも確認されない新羅と伽揶だけの独特のよろいと言えます。博物館関係者は"鉄製よろいは細心なと高度の技術を要するだけでなく支配者の権力及び集団の軍事力と技術力を見せてくれるという点から社会政治的に大きな意味を持つ"と言いました。日本が韓半島の南部を支配したという任那日本府を否定する証である甲が忘れられた古代家伽揶の力な器文化を物語っています。

24.無垢光大陀羅尼
(
国宝126、新羅時代)
陀羅尼が現存する世界で一番古い木版印刷物

無垢光大陀羅尼限りなくくてきれいに輝き、敢えてどんな垢も立ちない偉大たる陀羅尼(呪文)収録されている典’の意味です。この無垢光大陀羅尼は塔を建てる時念誦するとか塔の中に入れれば寿命を延ばすようになり、生に極で生まれることができ、願いを成就するようになるという仏教経です。
木板で印刷したこの文は迦塔の解体復元工事が進行された19661013日塔身部第2階に安置された舍利函の中で見されたことで、この時石塔部で一見された28点の一括遺物が国宝に指定されました。この文は一幅に5563行、一行に79文字になっています。上下はで、筆記体は力楷書として中六朝時代、特に北魏の書法を連想するようにします。《陀羅尼》の出刊年代の上下限700年代初から751年の間で推正するのに、そのわけは唐国の則天武后が集した15年の間にだけ主に通用してその後には影をひそめた新制字の4文字([][][][])をこの文の中で見つけることができ、また迦塔の建立年代の751年をその下限で見るためです。それなら今まで世界で一番古い印と知られた日本の《百万塔陀羅尼》の770年印刷より20年が先に進むわけで、紙質や印の形態を見ても中で輸入されたのではなく新羅で雕板になったことが確かなので、韓古印刷文化の高い水準を証明することができる貴重な遺物です。

続きの傑作遺物9(国を代表する遺物に興味ある方にお勧め)

25.青磁獅子蓋香炉
(国宝第60号、高麗時代)

高麗青磁の全盛期の12世紀頃に作られた青磁香炉で、高さ21.2㎝、直径16.3㎝です。香を立てる部分である体つきと獅子模様のふたで構成されています。
構造的に見れば香の香りが獅子の身を通じて開けられた口で噴き出すようになっている美しくて淑やかでこの時期青磁香炉の高い水準を見せています。

12世紀前半期に青磁が絶頂に達した時このようにめでたい動物や植物を倣った象形青磁がたくさん作られ、特別に獅子香炉に対しては中国宋の国人々も絶賛をした立派な作品です。

26.白磁鉄画葡萄文壷
(国宝第93、朝鮮時代)

朝鮮後期の白磁かめで適当な高さの口に肩部分がふくらんでいて下に下がるほど徐徐に細くなる模様で、大きさは高さ30.8㎝です。直角で立ち上がった口まわりにも柄をかけて胴には上手な腕前でぶどう葛を描きました。

黒色の顔料を使って画いたぶどう葛の葉と枝の鮮やかな表現から陶工たちの描いた絵ではなく専門画家たちが描いた絵です。胴全面に青色が漂う乳白色の白磁釉薬が前面に綺麗に塗られている朝鮮時代の代表的な白磁かめです。


27.青磁象嵌牡丹文缸
(国宝第98、高麗時代)

高麗時代作られた青磁かめで大きさは高さ20.1㎝、口直径20.7㎝で、胴には先後で牡丹が一筋ずつ飾られています。牡丹花は葉脈までも細細しく描写され、体つきの片面ごとに一杯に大きい文様を入れて印象的ですっきりした感じを与えます。特に花は白で葉は黒い色に象嵌し、花を中心に葉を左右上下に対称されるように配しました。薬は清い緑が漂う灰青色で非常に薄くて綺麗に塗られています。

薬の感じやかめの形態から12世紀頃の作品と見え、花と葉が大きく表現されることで黒白の備えが強くてすっきりした感じを与えて、象眼技法の高い品格を見せてくれています。

28.山清泛鶴里三層石塔
(国宝第105、統一新羅時代)

慶尚南道山清のボムホサと伝える昔の寺の跡に崩れていました。
塔は2段の基壇の上に3階の塔身をあげた一般的な姿で、上の階基壇には中柱に分けられた各面に八部衆像を刻み、塔身部は1階石に菩薩像の姿を彫刻して優雅な姿を見せています。

この塔は基壇と塔身の1階石に八部衆像及び菩薩像が派手に彫刻されていて‘飾り塔’と称えられたりする. このような飾り的な彫刻表現によって荘重で素朴な味を失いましたが、全体的に統一新羅後期の石塔の特徴をよく現わす優秀な作品です。

29.浄土寺弘法国師実相塔
(国宝第102、高麗時代)

高麗穆宗の時の僧侶である弘法国寺の浮屠(浮図)で、忠清北道忠州市の浄土寺址にありました。弘法国寺は統一新羅末から高麗初に活躍した有名な僧侶として唐で遂行して帰って来て禅を流行させ、高麗穆宗の時に国史の称号を受けました。

基壇は四角い底石を敷いた後に8角の下敷石をおいて, その上で伏せた蓮華柄が刻まれた台を中下敷石には雲に乗っている龍が纎細に彫刻され、上下敷石には下と対称される湧いた蓮華柄が刻まれています。

この塔で一番特徴的なことは塔身の丸い球形で、球を縦横で縛ったような十字形の柄が彫刻され、その交差点には花模様を飾っています。

屋根石は何の飾りはないが八ヶ所の角ごとに花切れを置き、惜しくも大部分が消えてしまった. 笠模様の屋根石底面には飛天像が彫刻されています。

全体的な構成では8角形を基本にする新羅の浮屠(浮図)形式を失わなく一部分の新しい試みを見せてくれた作品で、製作年代は弘法国寺が入籍した高麗燎宗8(1017)以後に見ています。塔身の丸い球形で、この塔は新しい技法を見せてくれる高麗時代の代表的な浮屠(浮図), 纎細な彫刻と単調な柄がよく調和して柔らかい感じを与えています。

30.伝興法寺廉居和尚塔
(国宝第104号、新羅時代)

統一新羅言葉の僧侶廉居和尚の舍利塔で、廉居和尚(?844)道義禪師の弟子で、禅に対する理解がほとんどなかった当時に主に雪岳山億聖寺にとどまりながら禅を広げるのに力をつくしました。

塔は上下各部分が8角の平面を基本にし、基壇は下石・中石・上石の三つの部分で出来て、各面ごとに素朴な彫刻が素敵に刻まれています。下石には獅子を刻み、中石には香炉を刻み、2段に用意された上石は下段には蓮華を二列に回し、上段には色んな彫刻を飾りました。

舎利をまつっておいた塔身の石は面ごとにとびら模様・4天王像を配置し、立体感を生かしてリアルで表現し、屋根石は当時の木造建築様式によく従がって実際建物の瓦屋根を見ているようです。

31.葛項寺三層石塔
(国宝第99号、統一新羅時代)

慶尚北道金泉市の葛項寺址にあった東西に立てられていた二つの塔で, 現在国立中央博物館の外で見学可能です。2階基壇の上に3階の塔身をあげた一般的な姿で、二つの塔がお互いに規模と構造が同じです。基壇の四角と各面の中に柱模様を倣って刻で、特に中柱は二つずつを置き、塔身と屋根石をそれぞれ一つの石で構成され、屋根石の底面に5段の支え石を用意しました。銅塔の基壇に統一新羅景徳王17(758)言寂法師3兄妹が建立した内容が刻まれていて作られた年代を正確に分かり、吏読文を使っていてもっと高い価値がある塔です。

二つの塔の規模が大きくないが各部分の比例が調和を成し、上下層基壇に中柱を二個ずつ刻んでおいていて当時の石塔様式がよく分かれる塔です。

32.南渓院七層石塔
(国宝第100、高麗時代)

塔は2段の基壇に7階の塔身を立てた姿で、ふと見れば新羅石塔の典型に従っているようが詳細的には様式上の変化を見せています。基壇は新羅の一般的な石塔に比べて下の基壇がずっと高くて、相対的に2階の基壇がちょっと低くなっています。塔身部は塔身と屋根石をそれぞれ1個の石を使い、塔身の角ごとに柱模様の彫りを刻んでおきました。屋根石は軒の曲線がひどく上がれ、高麗時代の石塔の特徴を見せ、屋根の底面には3段ずつの支え石が浅く刻まれています。塔の相輪部では露盤と覆鉢だけが一つの石に彫刻され、塔は高麗中期以前に立てられたことに推定されています。塔全体に流れる手法は新羅塔の影響をたくさん受けた高麗時代石塔の特色を見せてくれます。1915年塔を移して建てる時、塔身部で7個の 『紺紙銀泥妙法蓮華経』が発見され、高麗忠烈王9(1283)に塔の中に入れた仏教経典により、この時に塔を補修したことがわかりました。

33.北韓山新羅興王巡狩碑
(国宝第3号、新羅時代)

真興王は新羅の第24代の王(在位 540-576年)であり、積極的な対外戦争と領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に拡大させました。漢江流域を領土で編入した後、王がこの地域を訪問したことを記念するために立てたものです。元々は北漢山に位置していたが保存するために景福宮に移しておいてから現在は国立中央博物観に保管されています。

553年には百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い漢江流域に設置し、562年には伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧、朝鮮半島南東部は新羅の領域となりました。領土拡大は各地に残る真興王巡狩碑によって確認することができます。

北漢山碑(ソウル特別市)、昌寧碑(慶尚南道昌寧郡)、丹陽赤城碑(忠清北道丹陽郡)、磨雲嶺碑(咸鏡南道)、黄草嶺碑(咸鏡南道)です。

国立中央博物館はぺヨンジュンが執筆した書籍「韓国の美をたどる旅」にも紹介されました。



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