景福宮 경복궁

景福宮 경복궁

景福宮

“現存する韓国最初、韓国最大の古宮”

ソウル旅行では必ず訪れるお馴染みの場所ですね
景福宮は、1394年(太祖4年)に建てられた韓国最大の古宮。広さは126337坪(416,990㎡)・・・
東京ドーム9個分!朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンギュ)によって建てられた韓国で最初の正宮です。
126千坪という広大な敷地に、殿閣が200棟以上もありましたが、1592年豊臣秀吉の壬申の乱(文禄の役)で焼失してしまいます。その後、長い間放置され、1865年に再建! 
しかし・・・日韓併合時に、日本軍によって壊されてしまい、現在は復元工事が行われ続けています。
景福宮の「景福」は、「詩経」に出てくる言葉で、王とその子孫、すべての百姓が太平の御代の大きな幸せを得ることを願う、という意味だそうです。
景福宮は、南山、仁王山、北岳山で囲まれ、南側に漢江が流れる風水地理上の好地に建てられ、南側には正門である光化門、東側には建春門、西側には迎秋門、北側には神武門を造っています。
宮内には韓国最大の木造建築である勤政殿のほか、池の中に浮かぶ慶会楼や慈慶殿十長生煙突・交泰殿峨嵋山煙突・国立古宮博物館・国立民俗博物館なども見所
1895
年(高宗32年)明成皇后が景福宮内乾清宮で日本人によって惨殺され(乙未事変)、18962月に俄館播遷(高宗と太子がロシア公使館に避難した事件)が起こり高宗が住まいを徳寿宮に移したことで、王宮としての機能はなくなりました。
また、韓国の新婚カップルが婚前に撮る写真集の為の記念撮影のメッカでもあり、民族衣装 やウエディング姿のカップルがポーズをとっている様子が天気のよい日にみられます!


光化門

景福宮の正門で、文禄・慶長の役で焼かれた後1867年景福宮の再建と共に再建された。1916年に朝鮮総督府が建てられたことにより、興礼門をはじめとする行閣などが撤去されました。1926年に旧朝鮮総督府の完成に伴い、興礼門をはじめとする行閣などを撤去され、光化門撤去も決めましたが、林宗悦の訴えで難を免れ、東門の北側に移された。木材でできていた光化門は韓国戦争の時に焼失し、1969年に元の場所にコンクリート造りで復原された。他の古宮の看板は漢字で書かれているが、光化門の看板だけはハングルで書かれて朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領が直接書いたものだそうです。
光化門は三つの虹霓門で出来て、中央は王様が, 左右は皇太子と臣下たちが出入りするようにし、門樓には鐘をかけて時を知らせるのに使いました。

景福宮は宮殿建築上、大きく3つの大門(外側を代表する光化門、景福宮全体の大門である興礼門、朝礼が行われていた勤政殿の出入口である勤政門)が造られ、宮殿の外から勤政殿に出入りする時は、光化門→興礼門→勤政門を通ることになります。興礼門と勤政門の間は王を護衛する兵器や軍事訓練を担当する近衛隊が配置された場所で、王の安全が最優先されていました。
建春門
景福宮の東門で万物の機運が芽生える‘春が始まる’という意味を持って、主に王世子と東宮領域で働く臣下たちが出入りした門です。
迎秋門
景福宮の西門で‘秋を迎える’という意味を持って、主に文武百官が出入りした所で西の領域で働く臣下たちが出入りした門です。
神武門
景福宮の北門で、臣下たちの功績を記録した会盟壇があって王が功臣たちの忠誠の念をおす集まりの参加する時にこの門を利用しました。
興礼門
景福宮全体の大門で、興礼門周辺では朝礼の問い合わせだけではなく国文や教書頒布などが行われました。

永済橋
永済橋は、興礼門と勤政門の間に流れていた禁川の上にかかっていた石橋です。一般社会と王様の生活空間との境界線で、王と官僚たちの朝礼に臣下たちが並ぶ位置を区分する境界でもありました。永済橋の真ん中には西から東に流れるようにした御溝(東アジア地域の宮廷では必ず取り揃えなければならない)があり、石橋の左右の柱の上にヘテ(日本のこま犬のようで、善悪を見分けることのできる想像の動物。獅子と似ているが頭の真ん中に角がある)が立っており、水の中を覗きながら禁川を守る天禄がとっても印象的です。
永済橋を中心に北側には
以上の官員が立ち並び、南側には以下の官員が整列しました。
維和門

各司(王と王室を補佐する官庁施設が入っている場所)と賓庁(朝鮮時代宮廷に設置した会議室)の官員たちが円滑に出入りする門が必要で、その役目を維和門がしました。

勤政門
現存する李朝王宮の正殿正門のうち、唯一中層の建物として残っている門です。勤政門は国家の大行事がある時にのみ使用され、普段は門が閉じられていました。臣下は武班・文班に区別され、文班は東側の日華門を、武班は西側の月華門を使用していました。
勤政門は出入りする門の役割だけではなく政治的な活動が始まる所です。
東側行閣(長廊)には隆文樓(学問象徴する)、東側行閣(長廊)には隆武樓(象徴する)があります。
隆文樓と隆武樓は正殿領域から外へ出入りする所でもありますが、王と皇太子, 各司(王と王室を補佐する官庁施設が入っている場所)の官員たちが見ている本を保管した場所としても使われました。
勤政殿
勤政殿は慶福宮の正殿であり、「民を勤勉に治める」という意味で、朝には政事を見て、昼には善良な人を捜してみて、夕方には法令を磨いて、夜には体を楽にさせると言う意味を含んでいます。多包様式(屋根軒を支えるために飾って作った栱包が柱の上だけではなく柱の間にもある)の建物で現存する朝鮮時代の最高かつ最大の建築物です。文 武百官が、王に新年の挨拶をする「朝賀」という行事をはじめとする国家儀式や、外国からの使者との接見など国王執務室に当たります。
宮殿は吹き抜けの2階建てで、中央には玉座があり、その後ろに「日月五峰図」の屏風が印象的で、2007年1月より発行された新一万ウォン紙幣の絵柄としても採用されています。「日月五峰図」の五峰は水星・金星・火星・土星・木星を象徴します。勤政殿は北極星に当たる場所です。
天井中央の竜の姿や丹青の華麗さと雄壮さを備えた優れた建築物です。
二匹の黄竜が如意宝珠を中心に遊ぶような姿の精巧で優れた木工芸の技術、これは人に見せるための作品ではなく、王様と神との疎通を目的にしたと言う見解を持っている方がいます。

勤政殿は1395年(太祖4年)建立されましたが、文禄・慶長の役で焼けてしまい、その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建されました。1399から1549年まで12人の王の中で2代の正宗、4代の世宗、6代の端宗、7代の世祖、9代の成宗、11代の中宗、13代の明宗などの7人の王がここで即位式を行いました。
重層になった勤政殿建物は 2段の高い月台(宮殿や樓閣などの前に建てておいた踏み石)
鳳凰と唐草模様の踏道、勤政殿で儀式が行われる時に王が御座に上がれば勤政殿の外にある左右の香炉に香を立てた青銅香炉、火事予防のドム()、月台(宮殿や樓閣などの前に建てておいた踏み石)の上に彫刻された動物像・四方神(天の四方を守ってくれる神で、東-靑龍、西-白虎、南-朱雀、北-玄武)も見所です。

勤政殿の花崗岩を敷き詰めた庭に三道があり、道の真ん中は若干高く広いのですが、この道は王様が通る道でした。その両側の若干低い道は、文武官僚が通る道です。

栱包について
栱包:伝統木造建築で屋根軒の荷重を支えるために柱頭みたいなところ(組み合わせ木)で、建物の一番重要な意匠的表現として飾りの機能も兼ねています。その形式によって柱心包式、多包式、翼工式に分けられます。
柱心包式:屋根軒を支えるために飾って作った栱包が柱の上だけあります。
多包式:屋根軒を支えるために飾って作った栱包が柱の上だけではなく柱の間にもあります。
翼工式:柱心包式に似ていて鳥の翼の模様の飾りの木が見られます。

思政殿
思政殿は王が日常的な業務を処理していた執務室で、臣下と国事を行っていた便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)の中心的な建物です。また、思政殿の扁額は「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められていて、王が直接見守る中に科挙試験も受けた所です。
思政殿の前には天、地などの千字文の名前が付けられた倉庫があり、ここは活字を保管していた活字倉庫と伝えられています。
建物は端正な姿で、御座を中心に設置し、王を象徴する龍の描かれた壁画があり、オンドルが入ってない事で夏季に政事を行うには便利と思いますが、寒気が入る冬には特別な装置をしなくては耐えにくかったはずです。左右の晩春前と千秋前にはオンドルが設置されて, 寒い冬季の政務はこちらで行われたと思われます。

万春殿

万春殿は思政殿の東側にあった便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)の一つの建物で、王が臣下と国事を行っていた建物です。国王は便殿で臣下と国事について議論し、聖賢の本を読み、時には臣下と宴会を開いたといいます。

千秋殿
千秋殿は思政殿の西側にあった便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)の一つの建物で、王が臣下と国事を行っていた建物です。当時、政治・経済・文化の面で優れた業績を残した世宗大王と集賢殿(宮中に設置した学問研究機関)の学者がここでさまざまな新しい文物を創り出しました。

康寧殿
康寧殿は国王が健康で安らかであれば百姓も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられたそうです。王が生活していた宮殿の中心的な建物の寝殿で、東西に「井」の字型に九つの部屋があり、その中央の部屋で王が住み、 残りの八つの部屋には女官が控えていました。寝殿の室内には家具を置かなく、康寧殿の東側には東小寝である延生殿、西小寝である慶成殿があり、延吉堂などの付属の建物があります。王様と王妃が生活していたため、外部からの侵入を防ごうと、康寧殿と交泰殿は周囲を9つの壁で囲まれていた。
また、内外宗親を呼んで宴会をしたり、王様が臣下たちを呼んで隠密に政治を論議する所も寝殿でした。
康寧前の空間構成は真ん中の大庁(
)を中心に左右にオンドル部屋を置いて全面に広い月台(宮殿や樓閣などの前に建てておいた踏み石)を構えたのが特徴です。この月台(宮殿や樓閣などの前に建てておいた踏み石)は儀礼を行う空間で内進宴, 外進宴など多い人が参加する宴の時には周辺に補階を設置して補助したりしました。万寿無疆、千世万歳の文字図が刻まれた康寧殿の煙突も見所です。
慶成殿と延生殿
寝殿である康寧殿の西側の小寝殿である慶成殿、東側の小寝殿である延生殿は「天地の生と成をお手本とし、政治を明るくする」という意味から名つけられました。

欽敬閣
1438年(世宗20年)、蔵英実(科学者)が王命によって建てたもので、時刻と方位、季節を調べることができる自動の水時計である玉漏機輪を設置していた場所です。

含元殿
仏事がよく開かれた所で、農業に対する深い関心と王と王妃の内密した信仰のために王と王妃の寝室の隣に建てられました。
交泰殿
交泰殿は陰陽が調和を成す易経の泰卦(六十四卦のひとつ)からとられた名前しいで、王妃の寝室の建物です。王妃が個人的な日常生活をする住まいなので景福宮の中で最も華麗に飾られ、裏には人工庭園である峨嵋山を造っています。王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理していました。
康寧前のような空間構成をしていますが、前面に月台(宮殿や樓閣などの前に建てておいた踏み石)がないことが違います。家の構造も同じですが、屋根てっぺんに棟を設置しないで内部にはゾンドリ(棟下に垂木をかけておく)を二つ並んで置く手法を使っています。

峨嵋山と煙突
中国で一番美しくて神秘な山の峨嵋山は、人工的に造られた交泰殿の裏庭で、韓国は昔から庭に花園を作らなかったために、このような形の裏庭が発達したといわれています。峨嵋山は誰もが出入りできる場所ではありません。傾斜面には長く整えられた石を4段に積んで花壇を造り、段の上には梅、ボタン、ユスラウメ、クロフネツツジなどの花の咲く木や松の木、エノキ、ケヤキなどを植え、園林が造られました。またその間には石鉢、日影台、石蓮池、洗心台(心を洗い清める場所)などの湖や池を象徴する模様の石函を置き、山と湖が調和した風景を造成しました。

煙突は6角形の面に葛柄、鶴、コウモリ、鳳凰、松、梅、菊、不老草、岩、鳥、鹿などの柄を調和に配置し、韓国の中で一番おしゃれな煙突と言えます。
緝敬堂と咸和堂
交泰殿の裏庭である峨嵋山の北側に位置する嬪宮(王世子の妃居住空間)のひとつで、現在は東側の緝敬堂と西側の咸和堂だけ残っています。
慈慶殿
慈慶殿は、興宣大院君が慶福宮を再建した際、交泰殿の東側の紫微党跡に先王の后、趙大妃である神貞皇后(李朝第23代国王・翼宗の妃)のために建てた建物です。
慈慶殿は44間の規模で、西側に必要なときだけ火を焚いて暖房できる福安堂、普段滞在するオンドル(火を焚いて暖房できる)が効く中央の慈慶殿、夏は涼しく過ごせるように東南側の楼閣である清燕楼で構成されています。また慈慶殿の裏庭にある壁と西側の花の壁は、李朝時代を代表する美しい壁として綺麗に飾られています。

慈慶殿の十長生煙突
塀の一面を一段前に出るようにして、煉瓦で煙突を造り、煙突のてっぺんには10ヶ所の排出口、煙突の中央に十長生の柄で長寿、富貴、多産、悪神を退ける意味の様々な 模様を飾っています。粘土で造ったパネルには長生きを意味する日・岩・亀、多産を意味する葡萄、山、雲、松、鹿、鶴、万年茸、菊、蓮の花の絵と上には真ん中に王を象徴する竜と左右に臣下を象徴する鶴模様、下には空想の動物で火を食べるヘテが刻まれています。
不老長生を象する十長生柄と唐草紋、蝙蝠紋を精巧に刻まれ、絵のような造形美を見せてくれる煙突です。この煙突は朝鮮の王宮に残っている煙突のなかでいちばん美しいものとされています。
慈慶殿の壁模様
内壁には万寿紋、格子紋、角紋、花文などを精巧に刻み、外壁には梅、牡丹、菊、竹、蝶、蓮華などを色ある模様の煙瓦で飾って美しい造形美を見せています。
東宮の資善堂と丕顯閣
世子世子嬪(世子の正妃)の生活空間であり、王位に就く前の世子の教育が行われた場所です。東宮は世子宮と呼ばれ、世子と世子嬪(世子の正妃)の住まいとして使われた内堂の資善堂と丕顯閣が主殿閣で、世子が百官から朝礼を受けていた継照堂、世子の教育を担当する世子侍講院(春坊)、警護任務を遂行した桂坊などで構成され、周囲を囲む長い回廊の行閣には世子の世話をする女官たちが住んでいた場所で、部屋と大きな棟、台所、門などで構成されていました。資善と言うのは'善良な性分を育てる'意味です。丕顯閣では世子が臣下と国事を議論するときに使用し、朝鮮最後の第27代目王の純宗(18741926)が最後に王子時代を送りました。
慶会楼
国王と臣下が出会いを楽しむ場所という意味からつけられた慶会楼は迎賓館の役割を持つ外国使臣を接待する宴会場、王族が余暇と休息を楽み、国王と臣下が参席する重要な宴会が開かれ、看板の字は太宗(テジョン・李朝第3代目国王)の王世子だった譲寧大君(ヤンニョンデグン)が書いたものです。池の真ん中には2つの島があり、東側にある四角い島に2階建ての慶会樓を建てて48本の花崗岩でできた石柱で支えられています。外側は四角い石柱、内側は円柱の石柱で作られ、昔は「天は丸く、地は四角い」と考えられていたことから、石柱の丸と四角で「天と地」を表しているそうです。
また、火事予防の役割で水と火を治める竜二匹を慶会桜の池の北に埋めたのを補修の際に発見しました。

池のまわりには石蓮池、蓮花台、石漏槽などの石造物があり慶会楼の欄干と石橋の柱にはいろいろな模様の獣が刻まれています。

1592年の日本の侵略時燃え跡には石柱だけがただ残されました。それから高宗4(1867)景福宮 再建時に慶会楼も再建されましたが、 石柱に刻み付けた竜の様子は元の姿通りに再現できませんでした。
修政殿
修政殿は世宗大王の時、ハングルの創製の場になった修賢殿という建物の跡地に高宗が景福宮を重建しながら造った建物で、高宗初期には寝殿で使われ、便殿(王が居住し、執務を行った宮殿)の役目をしましあた。甲午改革の当時には軍国機務処及び内閣で使われました。学者たちが本を読んだ図書室としても利用されました。
香遠亭
香遠亭は
“香りが遠くまでおよぶ”と意味で名つけられ、香遠亭に渡る橋は“蓮の池を渡りながら香りに酔う”と意味で酔香橋と呼ばれました。
朝鮮第26代王、高宗が乾清宮を建てた際、その南側に池を掘り、池の真ん中に島を造って、そこに八角形で縁に欄がある3階建ての香遠亭を建てました。そして島との間に酔香橋という木の橋を架け、ここで散策を楽しんだりしていました。香遠亭は後方の北岳山と調和し、自然の中で静かに思索にふけたり、王と臣下が自然を愛でながら詩を作ったり、自然のを楽しみながら休憩もかねた場所です。慶会楼に比べて女性的なのが特徴で、王族たちが個人的な宴会を開き、楽しみました。
洌上真源
冷たい澄んだ水の源という水源を持っているこの池は洌上真源という泉で、西側から流れ出る水が丸い水槽で一回転して東側の方向の板石の下へ、また南側の方向に曲がり、水路を通って東側の香遠池に流れる明堂水(非常によい場所)の概念を導入して作ったものです。また香遠池を満たすこの水は慶会楼を通り過ぎ景福宮の外へ流れて行きます。
泰元殿
景福宮の西北の方一帯は殯殿・魂殿・霊殿のような祭祀と係わる殿閣があり、殯殿は王室に亡くなった方がいる時にを仕えておく所で、魂殿は宗廟に仕えるまで2年の間に位牌の祭る所で、霊殿は亡くなった方の肖像画を祭って祭祀を執り行なう所です。泰元殿は朝鮮を建国した太祖・李成桂の肖像画を祭っていた建物で、 後には殯殿や魂殿としても使われました。
乾清宮
王と王妃がのんびりと休息を取りながら住む目的に建てられた建物で、建築様式は士大夫の家の形態を取って派手で纎細な装いを加えました。王が使う長安堂と王妃がとどまる坤寧閤、そして長安堂の後に書斎として観文閣を作ってまるで士大夫の家のサランチェ(舍廊チェ:主人の居間)・母屋・書斎を連想させる構成で建てられました。
垣根には煙瓦を利用して美しい花模様を構え、高宗はこちらが好きで王妃とともによく立ち寄りました。
しかしのんびり休息する目的とは違いこの建物は朝鮮末期の政治的な混乱の場になって、高宗はアメリカ、イギリス、ロシアなどの公使たちを接見しながら多くの政治的な問題を処理しなければならないでした。
書斎の観文閣はロシア人によって2階建てに改造されたこともあり、乾清宮は宮の中で最初に電燈が設置されました。
日清戦争後、朝鮮をめぐる日本とロシアの微妙なパワーバランスのなかで朝鮮最後の王妃である明成皇后(閔妃)は日本勢力を排斥しようとする、1895 10 8日、宮に侵入した刺客たちにより、坤寧閤玉壺樓で明成皇后が殺害される事件が発生しました。1981年、明成皇后(閔妃)を哀悼し、殺害された場所に碑石が建てられた。「明成皇后遭難之地」という字は韓国の初代大統領だった李承晩の直筆です。この事件以後建物は放置・撤去され、2006年に昔の姿どおり復元されました。
集玉斎・協吉堂・八隅亭
集玉斎・協吉堂・八隅亭この3軒の建物は最初は昌徳宮の咸寧殿の別堂で建てられた建物でしたが、1888年高宗が昌徳宮から景福宮に居所を変えながらこの殿閣もこちらに移しました。高宗はこの建物を御真の奉安場所と書斎かたがた外国使臣の接見場で使用しました。1893年の一年の間、イギリス・日本・オーストリアなど外国公使たちを5回も接見しました。この3建物景福宮殿閣、建築様式中国式てられたのは当時新式えられた中国風れたからです。
国立民俗博物館
「韓民俗生活文化史」をテーマにした第1展示室は先史時代から三国時代の生活文化や印刷・青磁・科学技術・ハングルなど韓国民俗の文化史の流れを、「生活と物資」をテーマにした第2展示室は農耕、漁労、狩猟などの道具や衣食住の生活全般(工芸・製織・染色技術)の経済生活を、「韓国人の一生」をテーマにした第3展示室では生まれてから死ぬまでの冠婚葬祭について展示し、似てながら違う隣国の生活の面白さを発見する楽しい博物館です。

国立古宮博物館
朝鮮王朝(13921910)の王室の遺物や関連資料が展示されている王宮博物館で、古宮から集められた宮中遺物が4万点余り所蔵されています。
守門将交代儀式

光化門・興礼門の広場では、朝鮮時代の守門軍の交代儀式を再現した王宮守門将交代儀式が行なわれています。休館日の火曜日をのぞく毎日、10001500の定刻に1015分間行われ、鮮やかな伝統衣装を来た守門将と一緒に写真をとることも可能です。

景福宮はヨンジュンが執筆した書籍「韓国の美をたどる旅」にも紹介されました。



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